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ヒタカミのホツマ旅①~多賀城跡

この記事は2019年(令和元年)8月に青春18きっぷを使い、東京から仙台、秋田、青森を巡ったときの記録です。「ヒタカミ」とは古代東北地方の呼び名で、「ホツマ」とはホツマツタヱという古代文献の略です。

そもそも多賀城とは?

ヒタカミのホツマ旅、最初の目的地は「多賀城跡」です。

多賀城跡は宮城県多賀城市にあります。最寄り駅は国府多賀城駅。

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始発で東京を経ち、8回乗り換え、約9時間。新幹線や特急を使わない旅は確かに時間はかかりますが、道中をじっくりと味わうのもまた旅の醍醐味。

国府多賀城駅から多賀城跡までは徒歩で15分くらい。

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多賀城は「たがじょう」「たかのき」と呼ばれ、8世紀初め~11世紀半ば(奈良時代~平安時代)までに存在した陸奥国府(役所)や鎮守府が置かれた場所です。鎮守府とは、中央政府(朝廷)に従わない蝦夷(えみし)を征伐するための拠点のこと。

多賀城の創建は神亀元年(724年)。按察使(地方行政を監督する官職)である大野東人(おおの の あずまびと)が築城しました。

8世紀初めから11世紀半ばまでの間に、4回の造営が行われましたが、

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こちらは、第Ⅱ期の姿を推定復元した模型です。

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第3期(780年~869年)のときに貞観地震(869年)が起こります。

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貞観地震は、マグニチュード8.3以上あったと言われ、津波による被害も甚大だったようです。

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これは一般的な「多賀城」についての説明ですが、ホツマを紐解くことでそれより遙か昔、縄文時代のヒタカミ(古代東北地方)の姿が浮かび上がってきます(※正確に言うと「多賀城付近」になりますが)。

ホツマで紐解くヒタカミの軌跡とは?

ホツマではクニトコタチの八人の皇子(ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ)のうち、トのミコトとタのミコトの子孫が主流となって物語が展開します。

系図(クニトコタチ-トホカミエヒタメ)5

◎クニトコタチのヲウミ(近江)を中心とするタカマ(中央政府)を継いだトのミコト

◎ヒタカミ(東北地方)へ行き、国を開いたタのミコト

ところがトのミコトの子孫は6代目オモタル・カシコネの時代にお世継ぎがいなくなり断絶の危機を迎えてしまうのです。

系図(クニトコタチ-トホカミエヒタメ)5-1

それを救ったのがヒタカミを統べるタのミコトの子孫であるトヨケカミ(五代目タカミムスビ)でした。

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トヨケカミは自分の娘であるイサナミと、同じくタのミコトの子孫であるイサナギを夫婦として、7代目アマカミを継がせることでタカマ(中央政府)断絶の危機を救ったのです。

系図(クニトコタチ-トホカミエヒタメ)2.9

ここ多賀城付近はトヨケカミ(豊受大神)の本拠地だったのではないかと言われています。

若き日のアマテルカミ(天照大御神)とツキヨミ(月読命)が滞在したのも、ここヒタカミでした。祖父であるトヨケカミ(豊受大神)からアメノミチ(天の道)を学ぶためです。アメノミチ(天の道)とは陰陽融合、調和に沿った世の治め方、人の生き方のこと。

系図(クニトコタチ-トホカミエヒタメ)6

またアマテルカミ(天照大御神)の跡を継いだオシホミミは、多賀若宮からヒタカミに都を移して「タカのこう」と名付けました。

多賀城跡で感じる時代の移り変わり

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多賀城跡って、跡だけにガランとしてます。僕はそこを何度も行ったり、来たりしながら、思いを巡らせていました。ホツマに記されていること、その後、時代が下り、多賀城が築かれ中央政府(朝廷)と蝦夷(えみし)が壮絶な争いを繰り返していたことを。

蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちも元をたどれば、このヒタカミを開いたタのミコトの子孫(縄文から弥生に変わる時期にたくさんやってきた渡来人と混血はしているでしょうが)にあたるだろうということを。


ホツマの終盤(38アヤ)にはこう記されています。

ヤマトヲシロワケ(景行天皇)から、ホツマ(東海から関東)より北の国の様子を調べるように詔(みことのり)を受けたタケウチ(武内宿禰)は帰国後にこう伝えました。

いときょう先生の「やさしいホツマツタヱ」より引用させていただきます。 

ヒタカミは メヲノコかみを
あげまきに みをあやどりて
いさみたつ すへてヱミシの
クニこえて まつろはざれば
とるもよし

「日高見は女男が皆髪を
総角(揚巻)にして、身を綾取りて
勇み立っています。すべてのヱミシの
クニは肥えていますので、服従しなければ
征服するのも良いかと思います。」

引用:やさしいホツマツタヱ ミハタの三十八ー四十 P38-P39/いときょう著

かつて繁栄し、中央政府の危機を救ったヒタカミの地は、中央政府から敵地とみなされるほど、様変わりしてしまったということですね。縄文から弥生にかけて時代の移り変わりの大きさが、この一文からも感じられます。

ヒタカミが実質的に滅んだのはいつだったのか?

平安時代初期の延暦21年(西暦802年)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷征伐へ派遣されます。このときの蝦夷の指導者が阿弖流為(アテルイ)です。

優勢だった阿弖流為(アテルイ)も坂上田村麻呂が派遣されると、朝廷軍にたて続けに敗北。阿弖流為(アテルイ)と副将だった盤具公母礼(モレ)は500人余りを率いて降伏します。

坂上田村麻呂に付き添われて、平城京へ上京することになった阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)。坂上田村麻呂は2人の命を救うために助命嘆願します。しかし、公卿の反対にあい、阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)は河内国にて処刑されました。

この阿弖流為(アテルイ)の降伏、処刑をもって、ヒタカミ(古代東北地方)は滅亡したとみなしてもいいと思います。

というのも、この後に東北地方で起こった「前九年の役」や「後三年の役」は出羽国の清原氏、陸奥国の安倍氏といった豪族同士の争いになるからです。

この戦の結果、登場するのが平泉・中尊寺で有名な奥州藤原氏となります。その奥州藤原氏もまた、鎌倉幕府の源頼朝に滅ぼされてしまうのです。

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ガランとした多賀城跡をひとりで歩いていると、松尾芭蕉が、奥州藤原氏の拠点である平泉を訪れたときに残した俳句が耳にこだまします。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

ただ、僕の脳裏には奥州藤原氏だけでなく、それよりもっと遙か昔、縄文からの時代の移り変わりを意味する歌として聞こえていました。

満つれば欠ける世の習い
栄枯盛衰
諸行無常

こんな言葉とともに。


この後、ここ多賀城跡から750メートル先にある陸奥総社宮(むつそうしゃのみや)へ向かいました。

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陸奥国百社を合祀する神社で江戸時代には鹽竈神社の末社の一つだったところです。次の記事で書いていきますね。

ではでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

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