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ヒタカミのホツマ旅②~陸奥総社宮・壺の碑(つぼのいしぶみ)

この記事は2019年(令和元年)8月に青春18きっぷを使い、東京から仙台、秋田、青森を巡ったときの記録です。「ヒタカミ」とは古代東北地方の呼び名で、「ホツマ」とはホツマツタヱという古代文献の略です。

陸奥国内100社の神様を合祀する陸奥総社宮へ

多賀城跡を訪れるにあたって、もう一か所行ってみたいと思っていたのが、陸奥総社宮です。江戸時代には鹽竈神社の14ある末社の一つに数えられ「鹽竈神社を参拝する前には、まず陸奥総社宮へ」と言われていました。

多賀城跡から北東へ750メートル、歩いて約10分くらい。陸奥国一之宮である鹽竈神社と同様に鬼門の位置にあるこの神社は、多賀城に赴任してきた人たちを守り、精神的支えとしての役割があったのだと思います。

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こちらの神社、ちょっと普通の神社とは違っている点があります。主祭神は八塩道老翁神と八塩道老女神の二柱をお祀りしていますが、陸奥国内31群の式内社100社の神様を合祀しているからです。

だから「総社宮」と名前に付けているのでしょうが、なぜそんなにもたくさんの神様を合祀しているのかというと、古代において国司は赴任した国内の神社を巡拝することが任務とされていて、それを効率化するためというわけです。

ちょっと、手抜きじゃない?(笑)

とツッコミたくなる人もいるかもしれませんが、国司には当然、日々の仕事がありますし、国の領域も広くて、たくさんの神社があるところだってあったでしょう。現に、ここ陸奥総社宮は100社もの神様を合祀しているわけですから。

また、多賀城のように国府(役所)であると同時に、蝦夷討伐のための軍事拠点だったところもあるわけです。忙しい日々の合間をぬって、参拝できるという知恵といった方がいいのかなと思います。


まあ、仮に現代で例えるとすると、千葉県のお役所勤めの人が、千葉県にある全部の神社を巡拝する任務を仰せつかっているようなものです。神社巡拝だけをしているのならいいですが、日常のお仕事に加えてですから(笑)

そう考えると、お気持ちお察しします、という感じになりますよね。

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なぜか狛犬のところにたくさんの石が積んでありました。

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境内はほとんど人がいません。ひっそりと、静かに、誰かが来るのを待っているかのように。シーンと静まり返った境内に、時折カラスの鳴き声が聞こえるくらい。

手水舎で手と口をすすぎ、

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この地に来れたことへの感謝を伝えました。

誰もいない神社で佇んでいるのが結構好きな僕は、ボーっとしたり、時折、境内をぶらぶらしたり。

しばらくすると、近所に住む親子でしょうか。父親と幼稚園くらいの男の子がやってきて、参拝していました。その後、こちらもおそらく近所の方だと思いますが、年配の男性がやってきて静かに手を合わせていました。

こんな感じで、1人、また1人と多賀城へ赴任してきた国司の人たちも参拝にきたのかもしれません。仕事の前か、昼休みか、仕事帰りかは分かりませんが、神社にいらっしゃる神様たちは、参拝に来る人達を快く受け入れてくれたのでしょう。昔も今も変わらずに。

壺の碑(つぼのいしぶみ)へ~ホツマで分かる「つぼ」に込められた深い意味とは?

スマホを見ると、そろそろ仙台に戻らなければならない時間が近づいています。来た道を戻り、最後に多賀城碑(壺の碑)の場所へ。

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碑文には、

・京(平城京)から多賀城までの距離
・大野東人が多賀城を設置したこと
・藤原恵美朝狩が多賀城を修造したこと
・碑を建てた年月日

が記されています。

「壺の碑(つぼのいしぶみ)」は歌枕に出てくる名所です。松尾芭蕉が、この碑と対面した感動を「おくのほそ道」にこう書き残しています。

「行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり」

また、西行は「陸奥(みちのく)の おくゆかしくぞ おもほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」という歌を詠んでいます。


しかし、ホツマを紐解くと「ツボ」のさらなる意味を読み解くことができるのです。ホツマでは「ツボ」を祭りごと(政治)の中心地という解釈をします。カナメである場所、すなわち都のことです。

古代には三つの「ツボ」があったとされています。

・ケタツボ・・・多賀城付近
・ハラミツボ・・・富士山本宮浅間大社付近
・オキツボ・・・琵琶湖南西岸の日吉大社にある八王子山


ここ多賀城付近はケタツボ。古代東北地方ヒタカミの首都であり、5代目タカミムスビであるトヨケカミ(豊受大神)の宮だったのではないかと思われる場所です。

多賀城跡付近にいる間、古代の三つのツボの一つの場所に、いま自分がいるんだという不思議な実感とよくわからない懐かしさが同時に込み上げてくるような感覚を覚えていました。


実は僕の両親は父が茨城県、母は秋田県出身です。正直あまり興味がなかったのですが、ホツマを学ぶようになって自分のルーツを強く感じるようになりました。

父の出身である新治郡(現在は石岡市)はホツマではニニキネ(瓊瓊杵尊)が開いたニハリの宮があったところ。母は秋田、つまりヒタカミ出身ということになります。

ホツマの興味深いのは神様ではなく実在した人として記されていること。もちろん神話を通してでも繋がりを感じることはできますが、ホツマに触れると、より身近な存在としての繋がりを実感できます。

旅はその土地の記憶に五感を通して触れること。何気なく歩いている時にオーバーラップする感覚は、かつてご先祖様が生きた記憶を感じ取っているのかもしれませんね。


次の日は鹽竈神社へ向かいました。ここで思いがけない体験をすることになったのです。続きは次の記事で書いていきますね。

ではでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

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