気がつけばお寺の住職⑦
久しぶりに伊豆に来ました。
この時期、伊豆は桜の季節です。
本山のある南伊豆町も「さくらまつり」が開催され、毎年多くの観光客でにぎわいます。
自分がはじめてここに来たのは2007年です。
・世の中は思い通りにならない
・なのに思い通りにしたいと思うから苦しい
・思い通りにしたいと思うのは自分が何よりも大切だという自己への執着があるから
・でも執着しているはずの自己なんていうもの自体が存在しないと考えた方が合理的
・このことを知れば苦しみを根本から解消してもっと楽に生きれるはず
でしたが•••まったく楽にはならず、仏教に対する希望も興味も冷めかけていたときにもらった老師のひと言。
「うちの寺に来て坐ってみないか」
この言葉に運命を感じたわけでもなんでもありませんでしたが、それから1ヶ月くらいして、何となく気が向いて、伊豆にある老師のお寺を訪ねました。
東京から踊り子号で伊豆急下田駅、そこからタクシーで30分。
お寺に着いてすぐ、お弟子さんに案内されたのは4畳半くらいの狭くて、暗い部屋でした。
人の声も足音もなにもなく、まったく何の気配もない空間でした。
小さな窓はついていますが、外の景色が見えるわけでもなく、ほんとうに何もない、そんな空間でした。
そこに、2、3時間はいたと思います。
ちなみにこれは旦過詰(たんかづめ)といって、実際に修行に入る方は三日間は続くそうですし、そもそもその前に庭詰(にわづめ)というのもあって、簡単には中に入れてもらえないシステムなんだとあとから知りました。
不思議な時間でした。
退屈といえば退屈ですが、何をしたらいいのかがよく分からないことがツラい時間でした。
逆にいうと、これまでの自分は常に何かしていなきゃいけない、時間を過ごすことに何らかの意味をもたなければいけないんだと、無意識に思っていたんだと知りました。
そんな不思議な時間を過ごしたあと、老師が入って来られました。
「何をしに来た?」
いきなり、そんな質問をされ•••「あんたが来ないかって誘ったからだろ」という思いをグッとこらえて、
「坐りにきました」
と答えました。
そのとたん、老師はニコッと笑われて、
「じゃあ坐って帰れ」
と言って、ひと通り坐禅の仕方、流れ等をレクチャーしてくれました。
それから老師と二人、禅堂に移動して、人生初の坐禅(のようなもの)を体験しました。
始めに40分(一炷:いっしゅ、線香が一本燃えつきる時間です)、途中で禅堂の中を10分くらい歩き(経行:きんひん、といいます)、また40分坐る。
とにかく足も腰も背中も首も痛いし、何をどうしていいのかも分かりません。
坐禅っていうのは40分間ガマンすることで精神力を鍛えるものなのか???
というのが率直な感想でした。
坐禅が終わって、老師に車で伊豆急下田駅まで送ってもらい、電車の時間を待つついでに近くのそば屋で夕食をご一緒しました。
別れ際、老師から
「また来いよ」
と言われれ、「はい」と返事はしましたが•••
「二度と来るか!」
と思ったのを今でもハッキリと憶えています。
なのに•••それから約3時間、電車が東京に着いたときには、なぜかまた行きたいと思っている自分が不思議でした。
宗慧
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