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不可思議

この週末は茨城県大子町のお寺に帰りました。

火事の後、地元の業者さんにお願いをして、燃え残った建物の解体までは昨年末に済ませていました。

今回、解体後の廃材処理に加えて、燃えたものの処理まで終わり、その状況確認のために行ってきました。

お寺の境内に入り、一見して、庫裡のあった場所がスッキリと何も無くなっていました。

当たり前といえば、当たり前の光景でしたが、やはり、つい先日までここで暮らした日々が思い出されて、何ともいえず感慨深いものがありました。

これも執着といえば執着ですし•••分かってはいても、寂しさややるせ無さ、いろいろな感情が次から次へと湧き出してきます。

そんな複雑な思いで更地になった庫裡の跡を眺めていると、すみっこの方に土に汚れた懐かしい仏像が置かれていました。

後から聞くと、廃材処理のために重機で掘り上げた時にたまたま出てきたそうです。

全てが燃えてしまった中で、この仏像一体だけが、こうして残ったことに不思議なご縁を感じました。

そもそもこの仏像は、自分がお坊さんになる前に仕事でチベットに行った際(当時はチベット医学を実地見学するために行きました)、現地の方からいただいたものです。

「仏像をもらってもなあ•••」

という思いもあって、一旦は辞退しましたが、先方から、「この仏像はあなたと一緒にいるべき仏像です」と言われ、意味も分からずにいただいてきたものです。

それから、その言葉を信じたわけではありませんが、常に自分の部屋に置いていました。

今回、住職として、大子町に来る際にも、鹿児島から一緒にやってきました。

そういう仏像でしたので、こうしてまた再会し、東京の部屋に連れて来れたことが、ほんとうに幸せです。

考えてみれば不思議です。

あの火事を乗り越えて、こうしてまた再会できたことはもちろん、それが他の仏像、他の物ではなく、この仏像であったことが。

「不思議」というよりも、仏教用語として、「不可思議」の方が正確なんだと思います。

思議」は、人が考えたり、説明できること、「不可」は、それができないことですので、「不可思議」は、人が考えたり説明したりすことができないことそういう範疇を超えてしまったこと、になります。

そして、こういう「不可思議」なできごとに出逢ったとき、自分たちは、神様や仏様のような人を超越した存在を直感的に感じるようにできているんだと思います。

懐かしい仏像との再会。

そこにある不可思議さ。

神様、仏様に見守られている安心感。

いい週末を過ごしました。

宗慧

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