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映画『月』感想・雑感

書きだす前から意見がまとまるか分かりませんが、徒然にかきます。
映画『PLAN75』を見たときと、おなじような、でも全く違うような感覚です。

2016年に神奈川県でおこった事件が下敷きとなった小説を原作とした映画です。

障害者施設ではたらく、「書けなくなった」小説家洋子、小説家志望の陽子、「さとくん」、そしてアニメーションクリエイターである洋子の夫・昌平を中心として物語は進んでゆき、最終的に「さとくん」が、戦後最大の被害者を生んでしまう悲惨な事件を起こしてしまう。

以降、ネタバレを多分に含みます。
ただ、ネタバレ見た後でも、映画館でみる映像・音からしか受容できない何かがあると思います。

この映画を鑑賞したあと、やっぱり「さとくん」が起こした事件は間違っていたのではないのだろうか、とおぼろげに感じました。

私は、こんな言い方をすると角が立ちますが、そういった「きれいごと」に対してもともと懐疑的な立場なので、どちらかというとこの作品を観て私の中の「きれいごと」批判がより強まるのかな、と思っていました。

が、この映画は、若干「暗」の部分を誇張して描かれていた気がします。
おそらくこの映画は、「きれいごと」しかみない人へのアンチテーゼ、チャリティー番組などで描かれている「きれいごと」に対する反駁として作られた作品だろうと思います。だから、全編を通してホラー映画テイストで描かれていて、障害者施設はずっと暗い。
この描かれ方は賛否あると思います。
実態よりも、より暗く、より残虐に描かれていた節はあるのではないか、と思います。
「こんなことしていいんですか?」
と洋子が、そして働き始めてすぐの「さとくん」が問うように、作品内で描かれていた描写より適切なケアは存在すると思うし、そのケアが行われるよう努力されるべきだと思います。
そのケアが実現できている環境も存在するのでしょう。

あれでは、確かに障害者たちの症状(という書き方が適切かはわかりませんが)は悪くなる一方でしょう。
「さとくん」が、事件を起こしてしまうほどに思想を強めてしまうのも理解できてしまいます。
だから、私は彼の思想に、映画を見る前より懐疑的になりました。

映画では、障害者たちは受動的な存在として描かれていました。
なされるままに、制御されている存在として。

障害者たちは変われる、”人間”である、それは分かってる

映画に出演した障害者たちは、それをきっかけに行動が変わったそうです。
それを読んで、働きかけ次第では、同じ"人間"として接すれば、行動は変わっていく、可塑性のある存在である、と。
当たり前ですが。至極当たり前ですが。
映画で描かれていた施設では、そういった当たり前すら、通用しない、というか、頭から抜け落ちてしまう環境であったのだろう、と。

だけど、そういった共生環境は、やっぱり、難しい。
実現できているところも、もちろん存在する。
机上の空論なんかじゃなくて、適切な知識と、技術と、覚悟と優しさがあれば、実現できる、実現している空間がある。
これも事実。ほんとうにすてきな事実。

だけど、だけど。

その空間は、現代資本主義をベースとした現代日本とは、違う時間が流れている。
とっても「穏やかで、優しい」時間が。
だけど、違う時間が流れているということは、そういうことなのではないか、と。
どうしても、どうしても、この二つは相容れない空間なのではないか、という疑問が頭から離れない。

DX・技術革新を推進し、効率的に世界を進めていくことに対して賛美が送られる資本主義世界と、できないことを拾い上げて向き合っていく「穏やかで、優しい」空間は、相容れないのではないか、と。

そして、私は前者の世界を、「普通」の世界を否定できない。
その世界の美学を、否定できない。というか、絶対視することはいけないけど、否定なんてする必要なんてないと思っている。

そして、現代日本に住む私たちは、「穏やかで、優しい」空間を特別視する。
特別視するから、毎年チャリティー番組が成立する。

僕たち、私たちとは、違う世界として。

電車の中や、道端で、「普通」の生活の中に彼ら彼女らがふと入り込んできたとき、私たちは、やっぱり警戒する。
疎ましくさえ、思ってしまうかもしれない。

これも事実。確固たる事実。

彼らと生活を共にすることに対して、胸をはって前向きに取り組むことはできるだろうか。

少なくとも、私はそれができない。
できていると、胸を張って言えない。

いまはしっかりと言語化できているけど、他にもここに表出できない思いがあふれてきて、映画の中盤で叫びだしそうになってしまった。

映画の中で、洋子と昌平はその問いに対して、出生前診断という形で向き合っている。
そしてこの題材は、障害者たちの世界が、常に隣り合わせて他人事ではないことを、私たち観客にも突き付ける。

才能があること

そして、もう一つ、上記のことを考える上でテーマとして出てくるのが「才能」。

絵が上手な「さとくん」に対して、昌平は「若くて才能があってうらやましい」という。
過去にヒット小説を生み出した洋子に対して、陽子は「才能があってうらやましい」という。

才能がある、ということは、ドライ?に取れば、それだけ良い作品を生み出せるということ。
生産性があるということ。

この価値観を尊重するなら、、、、、、という話。

実際に、才能がない自分に、私は何度も失望している。
才能がなくて、できないことに対して、誰に助けてもらっている瞬間の自分が、情けなくて情けなくて仕方なくなる。

生産性のない自分が、いやになってくる。

生産性。効率。

「穏やかで、優しい」時間。

印象的なセリフ

これ以降は、私の備忘録も兼ねて。
セリフの細かいところは違うかもですが、ニュアンスで。

「あれは病気だよ、障害とは違う。」
妊娠が分かった洋子に対して、友人であり産婦人科医である友子が投げる言葉

病気と障害は違うのだろうか。
病気は治すべきものだけど、障害は治らないもの?
精神疾患と精神障害は何が違うんだろう。

この映画が、そしてあの事件が社会に投げかけた大きな問いは「人間とは何か」というものだろう。
生物学的人間に、人間的な人間と人間的でない人間の線引きはあるのだろうか?線引きは、していいのだろうか?

「月って、ときどき嘘みたいにみえる」
「さとくん」が月を見上げて言うセリフ。

この感性に共感した、ただそれだけ。
夜空にぽかんと浮かんでいて。
月明かりってこんなに明るいんだ、と驚いた夜があった。

そして、月は夜の闇を照らす一筋の光である。

「かわいそう」
「さとくん」がきーちゃんという寝たきりの障害者を殺害するシーンで。

「かわいそう」、と思うんだ。
「さとくん」はいらないものを排除するために、実行に移した。
ゴミを捨てるとき、そのゴミに感情移入することはない。
だけど、「さとくん」はかわいそうだ、といった。

おわり

まとまりのない文章になってしまったけど、これからの生活で、この映画のことを思い出すことはたくさんあるだろうし、その都度書いていった方がいいかな。

結論めいたものを出したとしても、それはそれで欺瞞な気がする。




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