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映画「峠最後のサムライ」で描かれた北越戦争とは?(前編)

小泉堯史監督の映画「峠最後のサムライ」
 私は6月19日に109シネマズ広島にて鑑賞しました。
 主役である河井継之助を演じる役所広司さんの魅力が溢れた作品でしたね。
 今回はこの映画で描かれた長岡藩の戦いである北越戦争とはどんな戦いだったのかについて書いていきます。

長岡藩は何故中立を目指したか?



 映画では役所さん演じる河井継之助は長岡藩を旧幕府側でもなく、新政府側ではない中立で戊辰戦争の動乱に巻き込まれまいとします。
 では、実際はどうなのか?
 長岡藩の藩主である越後牧野家は三河牧野家から越後長岡に移った一族で、三河牧野家は徳川家康が三河に居た時から徳川家に仕えている。。
 こうした一族の成り立ちから越後牧野家は、幕府の老中や京都所司代を勤めた藩主が何人も居て、幕府や徳川家と近い一族と言えます。
 これは薩長の新政府に恭順したとしても、所領安堵や藩主一族の安泰などの寛大な処置はあまり期待できないと思われる。
 会津藩や庄内藩など奥羽列藩同盟の旧幕府側に味方するにしても、早々に長岡藩が北関東の戦乱に巻き込まれる可能性が高く、銃砲を揃えて洋式訓練で鍛えた長岡藩の軍隊が藩を守る戦いの前に消耗してしまう。
 また長岡藩が新政府に味方すると表明した場合、越後各地に飛び地として点在している所領を守るとして会津藩など諸藩の攻撃を招く可能性もあった。
 長岡藩にとって早く立場を表明する事はデメリットは大きかった。
 また、映画の中で描かれたように長岡藩内でも恭順か抗戦か藩内の意見はまとまっていませんでした。
 こうした内外の問題を長岡藩は抱え、新政府への非戦や戊辰戦争での中立を目指す事になるのです。

中立の願いは通じず



 長岡藩の境に新政府が進軍した時の小千谷談判で、河井継之助は長岡を戦場にしたくない事、会津藩との仲介もすると願い出たが、会談に出た新政府軍の岩村軍監はあくまで長岡藩が味方するか否かの答えだけ求めた。
 河井はそれでも長岡はあくまで新政府とは非戦の考えであり、嘆願書を新政府軍の司令部である征討大総督府へ届けて欲しいと頼み込みますが、岩村は聞き入れません。
 こうして小千谷談判は決裂した。
 河井は非戦の証として、会談の前に長岡藩の南の境にある榎峠から兵を引き上げさせている。
 河井は本来なら守りを固める重要地点である榎峠を無防備にする事で、非戦は本心だと見せていました。これを岩村が理解できなかったせいもありましたが、岩村や新政府側から見ると怪しい部分はありました。
 小千谷談判の前に会津や桑名の軍に旧幕府軍が越後にある自藩の所領や旧幕府直轄領に展開して、新政府軍との戦闘が起きていた。
 越後での戦端が開かれていた中で長岡藩の非戦は、岩村にとって長岡藩が戦を始める為の時間稼ぎに聞こえたのかもしれない。
 また鳥羽伏見の戦いの後で、河井が外国人商人からガトリング砲など武器を買い集めた事が新政府側に伝わってしまっていたら、長岡藩の非戦と言う考えに疑問符が付くかもしれません。
 河井が長岡藩が軍備の洋式化と強化を行ったのは軍備の近代化のみならず、徳川幕府が弱くなる時勢に、新政府と奥羽列藩同盟に挟まれたが故でした。武力により長岡藩の独立性を守る為です。
 しかし、長岡藩の非戦の思いは通じず、敵味方になるかを迫られ、戊辰戦争の動乱に突入してしまうのです。

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