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世論やネットを操作する「正義感」という名の処罰感情の正体



昨日、「上級国民」と呼ばれて注目され、裁判のあいだもずっと関心を集めていた飯塚元被告が、過失を認めて反省し、刑に服すというニュースが報じられました。
これで決着がついたということなのか、今日にはもう関連記事はほとんど見かけませんでした。
意地悪な言い方をするなら、この件は「もうアクセスを稼げないから」と判断したかのごとくの素早い幕引きであり、撤収ぶりでした。


飯塚元被告が「上級国民」と呼ばれるようになったきっかけを覚えているでしょうか?
池袋の事故の2日後、神戸で市営バスが横断歩道に突っ込み、男女2人が死亡、4人が負傷するという事故が発生したことが関係しています。
市営バスの運転手はその場で現行犯逮捕されたのに、飯塚元被告のほうは、高齢と事故による怪我で入院したことを理由に身柄を拘束されませんでした。
この両者の待遇の違いに、元高級官僚であった飯塚元被告の経歴に注目が集まり、「上級国民」だから特別扱いを受けているという批判がネットで一気に広まったのです。

池袋と神戸の事故は、続けて起きた大きな事故だったこともあり、「上級国民」の由来も含めて、覚えているひとも多いでしょう。
では、じつはこの1年前にも、被害者の人数が異なるだけで、池袋の事故と酷似した「3つめの事故」があったことを覚えていますか?
今もまだなくなっていませんが、池袋の事故の前までは、高齢者が運転する車の暴走事故がかなりの頻度で起きていました。
ここで取り上げる3つめの事故も、そのうちのひとつです。
これらについて書かれた東洋経済オンラインの記事を一部抜粋して引用します。


だが、これで「上級国民」と呼ぶのであれば、飯塚元被告と同様の暴走事故を引き起こして人命を奪いながら逮捕もされず、車のせいにして一審の有罪判決を不服に控訴している、もう1人の「上級国民」がいる。飯塚元被告が旧通産省の高級官僚ならば、こちらは元東京地検特捜部長だ。

事故は2018年2月、東京都渋谷区の路上で起きた。石川達紘元東京地検特捜部長(82)はこの日、ゴルフに向かう女性と待ち合わせをしていた。乗用車を止めて降りようとしたところが、愛車は急発進して時速100キロを超す速度で約320メートル暴走。歩道にいた自営業の男性(当時37)をはねて死亡させたうえ、その先にあった店舗兼住宅に突っ込んでいる。

ところが、こちらもその場で逮捕されるようなことはなかった。それから時間を置いて書類送検され、在宅起訴された。ただしこの事故は死者1人で負傷者もなかったことから、同じ自動車運転処罰法違反でも過失運転致死だった。

実刑確定、池袋暴走「上級国民」裁判に残る違和感
なぜこの事故ばかり大きく騒がれたのか

©️青沼陽一郎 東洋経済オンライン2021/09/29の記事より引用

『人を裁くにあたって公正さは担保されているのか』

記事のなかで、青沼氏はそう疑問を投げかけています。

今回、飯塚元被告が過失を認めて収監されたことで、「この件はもう終わったこと」とされたようですが、この事故での加害者への“裁き”は法廷だけにとどまりませんでした。
飯塚元被告とその家族は、ネットにあふれる大勢の見知らぬ人々から暴言を浴びせられ、出どころの不確かな証言や噂などを根拠に中傷されるなど、ネット世論を中心に徹底的に裁かれることになりました。

一方、飯塚元被告と同じような事故の別の被告のほうは、わたしの知るかぎりでは大してネットや世間で裁かれることもないまま、その他の多くの事故とひとくくりにして忘れ去られています。
あまり話題になっていないだけで、実際はいまだに無罪を主張しつづけて、判決を不服として控訴しているのにです。この落差はいったいなんでしょう?

3つの事故の詳細は次のとおり。

【神戸】2019年4月
バス運転手 死者2負傷者4 現行犯逮捕 罪を認める 禁錮3年6月(求刑禁錮5年) 控訴せず 一審判決確定


【池袋】2019年4月
元通産官僚 死者2負傷者9 在宅起訴 過失を認めず 禁錮5年(求刑禁錮7年) 控訴せず 一審判決確定

【渋谷】2018年2月
元東京地検特捜部長 死者1 在宅起訴 過失を認めず 禁錮3年執行猶予5年(求刑禁錮3年) 控訴中

渋谷の事故の被告は、今なお無罪を主張して控訴しているのに、ネット世論は何故こちらはスルーしたのでしょうか?
渋谷の事故は、池袋の事故の1年前だからというのは理由になりません。池袋の事故が発生したのも、もう2年以上も前なのですから。
その2年間、池袋の事故の報道は頻繁に目にしたのに比べて、今なお無実を主張して被告が控訴をつづける事故については、わたしの記憶では、メディアは池袋の事故ほどには取り上げなかったように思われます。
そのせいかネットでもさほど長く話題にならず、被害者遺族の声にしても、池袋の事故に比べれば、ずいぶんとおざなりな扱いであったように感じられます。
がしかし、元東京地検特捜部長の事故で死亡した男性の妻も、法廷でこう証言しているのです。

「(石川被告が)裁判で『私も被害者だ』と話しており、胸をえぐられるようだった」と。


たしかにこちらの遺族は、飯塚元被告の事故の遺族ほどには、メディアの前でくり返し被害者感情を語ることをしていません。
だから、人々は池袋の事故の被害者の遺族には感情移入しても、渋谷の事故の場合はそうではなかったというのでしょうか?
亡くなったのはひとりだし、幼い子どもが死んだわけでもなかったし?
でもそれ、何かおかしくないですか?
加害者が「自分も被害者だ」とのたまい、飯塚元被告以上に運転ミスの証拠がありながら無罪を主張しつづけ、執行猶予つきの判決を不服として控訴までしてるんですよ?
どうしてメディアや、正義感にあふれるネット世論は、飯塚元被告にしたように、みんなでこの被告を叩き、不届き者としてやり玉にあげ、被告の家族も含む関係者に処罰感情を向けなかったのでしょうか?
もしかしたら、この被告の「元東京地検特捜部長」という経歴のせいですか?
こんな相手を好き放題に叩いたら反撃されるかもしれず、暴言や誹謗中傷を理由に逆に訴えられるのは困るからですか?


バスの運転手は自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)の罪に問われ、禁錮3年6月の実刑判決を受けて、神戸市を懲戒免職処分になりました。
この運転手がネットで叩かれたという話はあまり聞きません。
この運転手は現行犯逮捕されたし、もう十分に制裁を受けているからという判断でしょうか?

飯塚元被告の池袋の事故については、詳細を書くまでもありません。
飯塚氏や被害者家族と、まったく無関係な大多数の人々が、被害者遺族の訴えに感情移入して、正義感による処罰感情を理由に、飯塚氏が逮捕されなかったのは、旧通産省の官僚だったからだという「上級国民」バッシングが起こりました。
そしてその社会的制裁は、誰もが知るように飯塚氏の家族にまでおよんだのです。

では、渋谷の事故はどうでしょうか?
たしかにこの事故で亡くなったのはひとりだけでした。
被害者は成人男性で、幼い子供でも十代の若者でもなく、またこの事故に関しては、死亡した被害者以外には、他の事故のような複数の被害者が出たわけでもありませんでした。
しかし量刑も判決も、被告の主張も被害者の遺族の悲しみも、飯塚氏の事故と大差なく、こちらもまた「上級国民」と呼ばれてもおかしくない経歴だったのも飯塚氏と同じなのです。


石川達紘被告といえば法曹界での経歴は特筆に値する。検事としてロッキード事件などの捜査に携わり、1989年には東京地検特捜部長に就任。ゼネコン汚職など数多くの有名事件を手掛けて、名古屋高検検事長を最後に退官。2001年に弁護士登録すると、さまざまな企業の取締役を務めてきた。飯塚被告と同様に2009年には瑞宝重光章を受章している。

しかも、飯塚元被告がトヨタ自動車のプリウスで暴走したのなら、石川被告が運転していたのは同じトヨタでも高級車レクサスだった。こちらも「誤ってアクセルペダルを踏み続けた」と主張する検察側に対し、「天地神明に誓って踏んでいない」とまで断言して、車の不具合による無罪を主張している。どちらの裁判でも、トヨタ関係者らが証人として出廷し、車の不具合のなかったことを証言しなければならなかったことも共通する。

今年2月15日、東京地裁は石川被告の主張を退け、「被告が誤ってアクセルペダルを踏み込んだ」と認定して、禁錮3年の有罪判決を言い渡している。アクセルペダルの裏側に踏み込んだ痕跡があったこと、車の操作状況を示すレコーダーにもアクセルペダルを踏んだ記録があることを指摘して、「車の不具合が存在した現実的可能性は見当たらない」とした。ただし、執行猶予5年が付いた。実刑ではない。それでも石川被告はこの判決を不服として、即日控訴している。

©️青沼陽一郎 東洋経済オンライン2021/09/29の記事より引用


飯塚元被告が「上級国民」と批判されるのであれば、元東京地検特捜部長も同じ批判を浴びるべきだったのでは?

べつの言い方をするなら、石川被告の扱いに比べて、飯塚元被告にたいするメディアの報道やネット世論の攻撃は明らかに突出していました。
それは何故でしょうか?

飯塚元被告の裁判では、家族も含む加害者側への行き過ぎた制裁は、「被告人はすでに社会的制裁を受けている」という減刑の材料にもなり、厳罰化の主張に対して逆効果を招くことさえあると、判決でも述べられました。
正義感による処罰感情が理由なのか、それを許せないとする意見や、「死刑にすべき」といった感情的な主張や、家族も同罪だというたぐいの一方的な決めつけもネットでは見られました。
でも、その「偏った正義感」って、何かおかしくないですか?

「上級国民」バッシングは、格差社会の間で無力感に苛まれている人々の復讐であり、不満の捌け口にもなっているという見方がありますが、今回のように、一方には「叩かれる上級国民」がいて、もう一方には「スルーされる上級国民」もいるのです。
この被告は叩く、こちらはスルーすると、決めているのは誰なのでしょう?
それっておかしくないですか?この場合は叩くなら両方でしょ?と思ったのはわたしだけですか?



もう忘れているひとも多いかもしれませんが、石川被告の事故の少し前にも、高齢者による車の暴走事故で2人の高校生が被害に遭い、ひとりが重症、もうひとりが死亡する事故が起きています。
これは加害者の運転中の意識障害が原因の事故であったため、判決で被告は無罪となりました。
がしかし、この元被告は無罪判決を不服として控訴審で有罪を求めたのです。
その背景に何があったのか、飯塚元被告とその家族へのバッシングを知ってる者なら想像がつくはずです。
これはメディアも大きく取り上げたので、「無罪判決の被告が有罪を求めて控訴した」という部分は覚えているというひとも多いはずです。
これは意識障害という不可抗力による事故だったのですが、だれかがネットで「無罪とかあり得ないでしょ?」と、つぶやき、それに同調する者が現れてそれがRTされ拡散されてゆけば‥‥その先は言わなくてもわかると思います。
リアル世界でも同じで、近隣の住民や学校や職場の関係者のなかに同じように考える人々がいた場合はどうなるか‥‥その先を具体的に想像してみてください。

おそらくは、そんなふうにしてネット世論や世間の処罰感情が強くなれば、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというような、「正義感」に燃える人々の処罰感情に応えるために罪を引き受けるための犠牲者が求められるのでは?
がしかし、一時的な処罰感情を満たすためにそんなことをしても、本質的な解決にはなりません。
そもそも「処罰感情を満たすためにみんなで加害者を叩く」という時点で、その前に「たたく標的をだれにするかを決める」選別がおこなわれているのではないでしょうか。
つまり、みんなが叩きやすい加害者であるとか、だれもが同情しやすい被害者やその遺族であるとか、そうしたフィルターのようなものが存在するのかもしれません。 
もしもそんなものが存在するのであれば、「正義感」も「処罰感情」も、その選別によって左右されていることになりませんか?
わたし自身も、飯塚元被告の判決までの言動には納得できなかったし、彼が批判されたのは当然だったと思います。
が、それと同じだけ、石川県被告の件の扱いが小さすぎることには対しては、この被告のほうは「なぜ大して叩かれずにすんでいるのか」ずっと疑問に感じています。

少し別の話になりますが、わたしの意見では、政治家は叩かれて当然ですが、芸能人は違います。
なぜなら政治家は、われわれ国民が選挙で選んでいるわけで、税金を無駄遣いしたり公約を守らなかったりすれば、税金によって報酬が支払われている以上、批判されて当然の職業だからです。
ようするに「ちゃんと仕事しろよ」と政治家を批判してもいい権利が有権者にはあるのです。
でも、芸能人は違います。かれらは税金で養われているわけではないし、有権者には選ばれた人々でもありません。
彼らが問題を起こして批判される時、問題が何だろうとその理由の根底にあるのは、ファンの期待を裏切ったという感情的な代物であって、かれらを批判する権利が、どの程度ファンにあるのか、その辺りは微妙です。
芸能人でなければそこまで批判されずにすんだのに‥‥というような場合に論点になっているのは、いわゆる「有名税」みたいなものです。
なので、あまり売れていない芸能人よりも有名、人気者、大御所ほど叩かれるというのは、ある意味で正しく、公平だとわたしは考えます。

そういうふうに考えていった場合、飯塚元被告があれほどまでに叩かれたのであれば、石川被告もまた、元東京地検特捜部長だったこととは無関係に同じぐらい叩かれるべきだったと思うし、今からでもそうされるべきだとわたしは思うのです。
人を裁くにあたって公正さは担保されているだろうか。この言葉は、メディアの報道や裁判だけに限らず、ネット上で「人を裁く」すべてのユーザーにも言えることではないでしょうか。


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