見出し画像

(266) [旅順監獄における安重根の第二次 陳述內容]

(韓国)国史編纂委員会「韓国史データベース」

http://db.history.go.kr/
* このサイトで公文書原本の画像も公開されています。

統監府文書 7巻 > 一、安重根關聯一件書類 (哈爾賓事件書類 一~六、伊藤公遭難事件書類 一~四、安重根及合邦關係事類 一~三、哈爾賓事件憲兵隊報告一~三)>(266) [旅順監獄における安重根の第2回陳述内容] *1

*1 []で示されたタイトルは原文にはないが補われているものである。

国史編纂委員会, 1968,『韓国獨立運動史 資料7』:394-397.

------< 現代日本語訳 *2 >------
*2 全部で12の部分に漢数字が振られている。原文には空白行はないが、ウェブ上で読みやすくするために、番号が変わるたびに空白行を入れた。 

明治四十二年十一月二十六日 旅順監獄において境警視の安應七訊問の供述

一、今から三年前に平壤で石炭商を失敗し京城に上り、フランス宣敎堂の下に在る金岐父のところに二日間滯在中、弟の定根と李康夏方で会ってウラジオストクに行く旨を語ったが、弟は反對した。そして、隆熙元年旧六月二十四日、南大門で日韓の兵が衝突した日に京城を出発し釜山に出て、同地で船待ちのため草梁客主の家に一、二泊し、「神戶丸」で元山に向い、同地の市場に五、六日逗留し、その間にたびたび白神父を訪れたが、時局に関する談話等は避ける人だったので、ただ間島に行くと(だけ)語ると、間島はなんの面白みもない所だと彼は通訳した。また、自分は間島における同胞の狀況を視察する一方で民智の開發を計ろうとの考えで、義兵を挙げる考えは毛頭なかった。そして、同地で內地の形勢を見るに、日々同胞は不幸に陷るばかりなので、止むを得ず義兵を挙げて天下に向かって伊藤が韓民を圧制したことを公表し、一方、日本の皇帝が伊藤の政略に韓民が滿足していないことを知らせ、韓民が日本の保護を願っているということ不実である旨を訴えようとした。

二、元山から直ちに間島に渡った。九、十月頃は同地に留まり、時々書甸義塾に行ったことがある。佛洞・龍井村などに居て、おもに佛洞南会長(天主敎)方に寄食していた。

三、同地からウラジオストクに渡るときは、間島を出発して鐘城に至り、酒幕に宿して慶源に至り、同地より五、六日間を費して煙秋に入り、韓人が主人である都酒幕 (多数が集合して泊まる家) に泊り、一、二日留まり「ポセツト」(穆口) からロシアの汽船に便乘してウラジオストクに渡った。
ウラジオストクに渡ったのは十月末頃であり、同地に定住したのではなく、水靑「ウノル」、小玉嶺「モンコゲ」、「アチミ」、「シチミ」などの各地を徘徊し、また、ハバロフスクに至り、黒竜江を船で遡って四万里に至り、同地には韓人が三、四戸移住しており、別に用向もなく見物に至って帰った。また、ハルピン線には穆林子まで行ったことがあり、ハルピンには今回初めてやってきた。

四、富寧で大韓毎日申報や日本語の新聞を見て、伊藤の滿洲行きを知ったというのは事実ではない。尹致宗がこの話をしたので、それならばその新聞を持って来いと言うと、どこからか持ってきたので、それを見たけれど、果たして事実であった日字(時カ?)は何日か不明である。

五、ロシア領から李明南、洪致凡、金基烈、尹致宗とともに富寧郡に入ってきたが、尹が伊藤の滿洲行きを語ったので引返し、富寧を出発してハルピンに向かうことに決した。その日取り計算は左の通りである。
 十二日 慶興の山中
 十三日 同 
 十四日 同 
 十五日 豆滿江岸のロシア領の韓人家 
 十六日 同 
 十七日 煙秋宋某方宿泊 
 十八日 「ポセツト」宿屋金某方宿泊 
 十九日 「ポセツト」発、汽船中 
 二十日 ウラジオストクの李致權方に宿泊 
 二十一日 ウラジオストク発、綏芬河で柳を乘せて汽車中 
 二十二日 昼は汽車中、夜は金成白方に宿泊 
 二十三日 ハルピンの金成伯方に同上 
 二十四日 蔡家溝のロシア人の飯屋にて宿泊 
 二十五日 ハルピンの金成伯方に宿泊 
 二十六日 兇行

右の通り、尹から伊藤の消息を聞き、ハルピンに向かったのは「ポセツト」出船の十日ほど前だと思うが、日字は分明ではない。ほかの洪致凡らは豆滿江岸の本国にて別かれ、自分一人で来た。

六、李範允とは一昨年の十一月頃にウラジオストクの同人方で会ったが、意見が合わなかったので義兵を挙げるにも行動をともにしたことはない。
洪範道とは会寧で彼から会見を求めたので会見した。義兵としては行動はともにしたことはない。その時に彼には数千名の部下がおり、咸鏡北道都大将だと言っていた。

七、崔才亨とは昨年夏に知り合った。あえて動機と言えるようなこともなく、彼の地において有名な富者であるから知っていた。軍糧資金のようなものも同地の韓民で負担したのであり、決して同人一人の負担ではない。大韓のために動くものから義捐金を募った。

八、一万円を李範晋から崔才亨を経て軍資金として送付してきたものを李範允、李緯鍾と自分と三人で使用したということはなく、果して送付て来たのかどうかを知らない。ある者は来たと言い、ある者は来ていないと言うが、真偽はしらない。

九、崔才亨はロシア国籍に入籍した者であり韓国を思う至誠が私のようではないので、同人が一人で新聞の資本を負担する理由はない。大東共報はその名の通り共報であることからして彼地における同族の共同事業であるから、財力の多少によって経費を負担している。

十、新聞社および李剛となんら関係はない。私は彼らのように開発を目的とするものではない。私の目的は、とにかく伊藤の政策を破毁することにあるので、目的が自ずから違っている。また彼らと計ることはない。義兵と共報は伊藤の政策に反対する目的は同一であるが、自ずから違い(差別)がある。彼は漸進主義であり、私は急進主義である。共報の如きは漸次民知開発を期する立場である。

十一、電報を出せば柳鎭律から金を送って来るというのは一時の口術であり、金成伯から金を借りるために返金の途があると欺いたのである。あえて柳から送金したわけでもない。柳もロシア国籍に入籍した者である。我々に保護を与えるはずがない。
十二、一昨年の春頃に平壤で西北学会に入会した。そのさい安昌浩と二,三回会見したことがあるが、意見の交換をしたことはない。一昨年の夏頃に安昌浩が鎭南浦にやって来て演説をしたときに、答辞を述べたことがある。安昌浩と同行または一人で演說して回ったことはない。

------< 国史編纂資料館ウェブサイトで公開されている翻刻文 >------

明治四十二年十一月二十六日旅順監獄ニ於テ境警視ノ安應七訊問ノ供述

一、今ヨリ三年前平壤ニテ石炭商ヲ失敗シ京城ニ上リ佛蘭西宣敎堂ノ下ニ在ル金岐父ニ二日間滯在中弟定根ト李康夏方ニ會シ浦汐行キノ旨ヲ語リタルニ弟ハ反對セリ而シテ隆熙元年舊六月二十四日南大門ニテ日韓兵ノ衝突シタル日京城ヲ發シ釜山ニ出テ同地ニテ船待ノタメ草梁客主家ニ一二泊シ「神戶丸」ニテ元山ニ向ヒ同地市場ニテ五六日逗留シ其間ニ於テ度々白神父ヲ訪ヒ時局ニ關スル談話等ハ避ケル人ナルヲ以テ唯タ間島ニ行クト語リタルニ間島ハ何等趣味ナキ處ナリト彼ハ通譯セリ又タ自分ハ間島ニ於ケル同胞ノ狀況ヲ視察シ一方ニハ民智開發ヲ計ラントノ考ヘニテ義兵ヲ擧クル考ハ毛頭ナカリシナリ而シテ同地ニテ內地ノ形勢ヲ見ルニ日々同胞ハ不幸ニ陷ルノミナレハ止ムヲ得ス義兵ヲ擧ケ天下ニ向ケ伊藤ノ韓民ヲ壓制スルヲ公表シ一方日本ノ皇帝カ伊藤ノ政略ニ韓民滿足シ居ラサルヲ知ラシメ韓民カ日本ノ保護ヲ願フトノコトカ不實ナル旨ヲ訴ヘントスルニ在リ

二、元山ヨリ直チニ間島ニ渡リタリ九·十月頃同地ニ留リ時々書甸義塾ニ行キタルコトアリ佛洞·龍井村等ニ居リテ重モニ佛洞南會長 (天主敎) 方ニ寄食シ居リタリ

三、同地ヨリ浦潮ニ渡ルトキハ間島ヲ發シテ鐘城ニ至リ酒幕ニ宿リ慶源ニ至リ同地ヨリ五六日間ヲ費シ煙秋ニ入リ韓人ノ主人ナル都酒幕 (多數集合シテ泊マル家) ニ泊リ一二日留リ「ポセツト」(穆口) ヨリ露汽船ニ便乘シ浦汐ニ渡リタリ
浦汐ニ渡リタレハ十月末頃ニシテ同地ニ定住シタルニアラス水靑「ウノル」小玉嶺「モンコゲ」「アチミ」「シチミ」ノ諸方ニ徘徊シ又「ハボロスク」ニ至リ黑龍江ヲ船テ遡リ四萬里ニ至リ同地ニハ韓人三四戶移住シ別ニ用向モナク見物ニ至リ歸リタリ又哈爾賓線ニハ穆林子迄行キタルコトアリ哈爾賓ニハ今回始メテ至リタリ

四、富寧ニテ大韓每日申報又ハ日本字ノ新聞ヲ見テ伊藤ノ滿洲行キヲ知レリトハ事實ニアラス尹致宗カ此ノ話ヲ爲スニヨリ然ラハ其ノ新聞ヲ持チ來レト云ヒタルニ何處ヨリカ持チ來リタルヲ以テ之ヲ見タルニ果シテ事實ナリシ日字ハ何日カ不明ナリ

五、露領ヨリ李明南·洪致凡·金基烈·尹致宗ト共ニ富寧郡ニ入リ來リタルモ尹カ伊藤ノ滿洲行ヲ語リタルヨリ引返シ富寧ヲ發シテ哈爾賓ニ向フコトニ決シタリ其ノ日取計算左ノ如シ
 十二日 慶興ノ山中
 十三日 同 
 十四日 同 
 十五日 豆滿江岸露領韓人家 
 十六日 同 
 十七日 煙秋宋某方宿泊 
 十八日 「ポセツト」宿屋金某方宿泊 
 十九日 「ポセツト」發汽船中 
 二十日 浦潮李致權方ニ宿泊 
 二十一日 浦汐發綏芬河ニテ柳ヲ乘セ汽車中 
 二十二日 晝汽車中夜ハ金成白方宿泊 
 二十三日 哈爾賓金成伯方同上 
 二十四日 蔡家溝露人ノ飯屋ニテ宿泊 
 二十五日 哈爾賓金成伯方ニ宿泊 
 二十六日 兇行

右ノ如クシテ尹ヨリ伊藤ノ消息ヲ聞キ哈爾賓ニ向ヒタルハ「ポセツト」出船ノ十日許前ト思フ日字分明ナラス
他ノ洪致凡等ハ豆滿江岸本國ニテ別レ自分一人テ來リタリ

六、李範允ハ一昨年十一月頃浦汐ノ同人方ニテ會ヒシタルモ意見ノ合ハサルヨリ義兵ヲ擧クルニモ行動ヲ與ニシタルコトナシ
洪範道トハ會寧ニテ彼ヨリ會見ヲ求メタルヲ以テ會見シタリ義兵トシテ行動ハ共ニシタルコトナシ其時彼ハ數千名ノ部下アリ咸鏡北道都大將ト云ヒ居レリ

七、崔才亨トハ昨年夏ヨリ知リ合ヒタリ敢テ動機ト云フコトモナク彼地ニテ有名ナル富者ナレハ知リタリ軍糧資金ノ如キモ同地韓民ニテ負擔シ決シテ同人一人ノ負擔ニアラス大韓ノタメニ動クモノヨリ義捐金ヲ募リタリ

八、壹萬圓ヲ李範晋ヨリ崔才亨ヲ經テ軍資金トシテ送付シ來リタルモノヲ李範允·李緯鍾ト自分ト三人ニテ使用シタルコトナク又果シテ送付シ來レルヤ否ヤ知ラス或ハ來リト云ヒ或ハ來ナイト云ヒ眞僞ヲ知ラサルナリ

九、崔才亨ハ露國ニ入籍シタルモノニシテ韓國ヲ思フノ至誠我レノ如クナラス故ニ同人カ一人ニテ新聞ノ資本ヲ負擔スルカ如キ理由ナシ大東共報ハ名ノ如ク共報ナルヲ以テ彼地ニ於ケル同族ノ共同事業ナレハ財力ノ多少ニ依リ經費ヲ負擔シ居レリ

十、新聞社及李剛トハ何等ノ關係ナシ自分ハ彼等ノ如ク開發ヲ目的トスルモノニアラス自分ノ目的ハ兎角伊藤ノ政策ヲ破毁スルニアルヲ以テ目的自カラ違ヘリ復タ彼等ト計ルコトナシ
義兵ト共報ハ伊藤ノ政策ニ反對スル目的ハ同一ナルモ自ラ差別アリ彼レハ漸進主義ニシテ我ハ急進主義ナリ共報ノ如キハ漸次民知開發ヲ期スルニアルナリ

十一、電報ヲ出セハ柳鎭律ヨリ金ヲ送リ來ルトハ一時ノ口術ニシテ金成伯ヨリ金ヲ借リル爲メニ返金ノ途アルヘク欺キタルナリ敢テ柳ヨリ送金シタル譯ニモアラサルナリ柳モ露ニ入籍シタルモノナリ我々ニ保護ヲ與フル筈ナシ

十二、一昨年春頃平壤ニテ西北學會ニ入會セリ其ノ際安昌浩ト二三回會見シタルコトアルモ意見ノ交換ヲナシタルコトナシ一昨年夏頃安ハ鎭南浦ニ至リ演說シタルトキ答辭ヲ述ヘタルコトアリ安ト同行又ハ一人演說シテ回リタルコトナシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?