見出し画像

『シアトル首長の手紙』

10年前、ヨガのレッスンで、大好きな紀子先生からこのプリントを頂いた。

『シアトル首長の手紙』。
1854年、アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスがインディアンたちの土地を買収し居留地を与えると申し出て、1855年、インディアンのシアトル首長はこの条約に署名した。

開拓者である白人に先祖代々住んで来た土地を買収され、不毛な居留地へと追いやられることになったシアトル首長が、大統領フランクリン・ピアスに伝えてほしいとスピーチを行ったと言う。

アメリカに伝わるそのスピーチの様々なバージョンを作家の寮美千子さんが集め、その中から『人間と自然の関わり』に関する根本的で大切な言葉を切り取って並べ替え、訳されたものがこちら。

はるかな空は 涙をぬぐい
きょうは 美しく晴れた。
あしたは 雲が空をおおうだろう。
けれど わたしの言葉は 星のように変わらない。

ワシントンの大首長が 土地を買いたいといってきた。

どうしたら 空が買えるというのだろう?
そして 大地を。

わたしには わからない。

風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい どうやって買おうというのだろう?


すべて この地上にあるものは
わたしたちにとって 神聖なもの。
松の葉の いっぽん いっぽん
岸辺の砂の ひとつぶ ひとつぶ
深い森を満たす霧や 
草原になびく草の葉
葉かげで羽音をたてる 虫の一匹一匹にいたるまで
すべては 
わたしたちの遠い記憶のなかで
神聖に輝くもの。


わたしの体に 血がめぐるように
木々のなかを 樹液が流れている。
わたしは この大地の一部で
大地は わたし自身なのだ。


香りたつ花は わたしたちの姉妹。
熊や 鹿や 大鷲は わたしたちの兄弟。
岩山のけわしさも 
草原のみずみずしさも
小馬の体のぬくもりも
すべて おなじひとつの家族のもの。


川を流れるまぶしい水は 
ただの水ではない。
それは 祖父の そのまた祖父たちの血。
小川のせせらぎは 祖母の そのまた祖母たちの声。
湖の水面にゆれる ほのかな影は
わたしたちの 遠い思い出を語る。


川は わたしたちの兄弟。
渇きをいやし
カヌーを運び
子どもたちに 惜しげもなく食べ物をあたえる。


だから 白い人よ
どうか あなたの兄弟にするように
川に やさしくしてほしい。


空気は すばらしいもの。
それは 
すべての生き物の命を支え 
その命に 魂を吹きこむ。

生まれたばかりのわたしに
はじめての息を あたえてくれた風は
死んでゆくわたしの
最期の吐息を うけいれる風。


だから 白い人よ
どうか この大地と空気を
神聖なままに しておいてほしい。
草原の花々が甘く染めた
風の香りを かぐ場所として。


死んで 星々の間を歩くころになると
白い人は 
自分が生まれた土地のことを 忘れてしまう。

けれど 
わたしたちは 死んだ後でも
この美しい土地のことを 決して忘れはしない。
わたしたちを生んでくれた 母なる大地を。

わたしが立っている この大地は
わたしの祖父や祖母たちの灰から できている。

大地は わたしたちの命によって 豊かなのだ。


それなのに 白い人は
母なる大地を 父なる空を
まるで 羊か 光るビーズ玉のように 
売り買いしようとする。
大地を むさぼりつくし
後には 砂漠しか残さない。


白い人の町の景色は わたしたちの目に痛い。

白い人の町の音は わたしたちの耳に痛い。


水面を駆けぬける 風の音や
雨が洗い清めた 空の匂い
松の香りに染まった やわらかい闇のほうが 
どんなにか いいだろう。

ヨタカの さみしげな鳴き声や 
夜の池のほとりの 
カエルのおしゃべりを 聞くことができなかったら
人生にはいったい どんな意味があるというのだろう。


わたしには わからない。
白い人には なぜ
煙を吐いて走る 鉄の馬のほうが 
バッファローよりも 大切なのか。
わたしたちの 命をつなぐために
その命をくれる バッファローよりも。

わたしには あなたがたの望むものが わからない。

バッファローが 殺しつくされてしまったら
野生の馬が すべて飼いならされてしまったら
いったい どうなってしまうのだろう?

聖なる森の奥深くまで
人間の匂いがたちこめたとき
いったい なにが起こるのだろう?


獣たちが いなかったら
人間は いったい何なのだろう?
獣たちが すべて消えてしまったら
深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう。


大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。

—————–<中略>—————————–

最後の赤き勇者が
荒野とともに消え去り
その記憶をとどめるものが
平原のうえを流れる雲の影だけになったとき
岸辺は 残っているだろうか。
森は 繁っているだろうか。
わたしたちの魂の ひとかけらでも
まだ この土地に残っているだろうか。


ひとつだけ 確かなことは
どんな人間も 
赤い人も 白い人も 
わけることはできない ということ。

わたしたちは結局 おなじひとつの兄弟なのだ。
わたしたちが 大地の一部であるように
あなたがたも また この大地の一部なのだ。

大地が 
わたしたちにとって かけがえがないように
あなたがたにとっても かけがえのないものなのだ。


だから 白い人よ。
わたしたちが 
子どもたちに 伝えてきたように
あなたの子どもたちにも 伝えてほしい。

大地は わたしたちの母。
大地にふりかかることは すべて 
わたしたち
大地の息子と娘たちにも ふりかかるのだと。


あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。


生まれたばかりの赤ん坊が
母親の胸の鼓動を したうように
わたしたちは この大地をしたっている。

もし わたしたちが 
どうしても 
ここを立ち去らなければ ならないのだとしたら
どうか 白い人よ
わたしたちが 大切にしたように
この大地を 大切にしてほしい。

美しい大地の思い出を 
受けとったときのままの姿で 
心に 刻みつけておいてほしい。

そして あなたの子どもの 
そのまた 子どもたちのために
この大地を守りつづけ
わたしたちが愛したように 愛してほしい。

いつまでも。

どうか いつまでも。

【『父は空 母は大地』(寮美千子・編訳 ロクリン社刊)】

(全文は寮美千子さんのHP、またはこの本↓でぜひ!)

編・訳 寮美千子
画 篠崎正喜

はじめて読んだ時は号泣した。
いつでも、読むたびにはらはらと涙が出る。今こうして記事を書きながらも。

これを読んで、紀子先生の雰囲気やヨガのレッスンでのお話で「この先生好きだ!!」という強烈な直感があった理由がわかった気がした。きっと、大きな根っこが同じなのだと嬉しくなった。

どうしたら 空が買えるというのだろう?
そして 大地を。

わたしには わからない。

最初のここで、もう胸にグッときた。
こちらにも書いたけれど、わたしは自分の家を持ちたい、買いたい、という思いが昔から1ミリもないし、人間が土地を売り買いするとか所有するって不思議だなあとずっと思っていたから。

わたしの体に 血がめぐるように
木々のなかを 樹液が流れている。
わたしは この大地の一部で
大地は わたし自身なのだ。

わたしが立っている この大地は
わたしの祖父や祖母たちの灰から できている。

大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。

大地は わたしたちの母。
大地にふりかかることは すべて 
わたしたち
大地の息子と娘たちにも ふりかかるのだと。

これらは特に好きな部分。
子供の頃から、誰にも話さなかったけれどなんとなくこういうことをいつも考えていて、自分の世界に忠実に生きていた20歳くらいにはインディアンの本をたくさん読んでいた。

インディアンの人生哲学が味わえる詩集。絵も素敵。

インディアンの、世界を、人生を見る目線に共感する。
こういう風に生きて行きたいと思うし、この世界観で生きていたら世界は平和になるのになあと、単純に思う。

両親を亡くした少年が、インディアンのライフ・スタイルと精神性を祖父母から学んでいくお話。

わたしはよく人を褒める時に「わたしインディアンだから嘘つかないんだけど」というフレーズを使うのだけれど、本気で前世にインディアン時代があったのだろうなと思っている。
「インディアン」という言葉の響きにも、あの服装にも胸がゾワゾワする。
コスプレをしたら最強に似合う自信もある。

こんな本も見つけてしまった!今度読まなくちゃ!

ゾワゾワするものはきっと何かがあるとわたしは思っている。
わたしは神社やお寺には全く何も感じないので、日本ははじめてなのかもしれない。
でも十字架、教会、シスターにはゾワゾワくるものがあるから、シスター時代はきっとあったと思う。
アフリカのマサイ族なんかも素敵だと思うけれど、ゾワゾワはしない。
ギリシャの神殿にはいたと思う。古代ギリシャで天文学者をしていたんじゃないかなと思う。
イタリア、フランスなどのヨーロッパには何も感じないけれど、スペインにだけはグッと来るものがある。
アジアにはあまり感じるところはないけれど、アラビアにはいたような気がする。ベリーダンサーや王の侍女時代はあると思う。
モンゴルは、わたしはいた気はしないけれど、わたしの妹は確実にいたと思う。
でもやはり1番ゾワゾワするのはインディアン、マヤ、アンデス、その辺だ。
不思議だけれど、どうしても心惹かれる何かがある。アンデスの音楽も魂が震える。


と、なんとなくの勝手な妄想だけれど、人それぞれ心惹かれる国があるのはすごく面白い。そして大抵、自分の心惹かれる国の写真に自分を合成しても浮かないから、やはりルーツなんじゃないかと思うのだ。
『日本人』と言っても、東南アジアのような顔、イタリア人スペイン人のような顔、南国の顔、色々ありすぎて、たまに電車の中で吹き出しそうになる時がある笑。純粋に日本人の顔、なんてないよなと思う。
そんなことも含めて、

どんな人間も 
赤い人も 白い人も 
わけることはできない ということ。

わたしたちは結局 おなじひとつの兄弟なのだ。

と思っている。

あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。

わたしという肉体が死んだら、焼かれて灰になり原子になり、地球の色々なところへ散らばって行く。
サトウユカの一部だった原子が、海に落ち魚に入り、その魚を中国の女性が食べ、その女性が出産をしたら、その赤ちゃんにわたしだった原子が入るかもしれない。
その赤ちゃんは中国人だけど、なぜか日本が懐かしく感じるかもしれないし、インディアンやアンデスにも惹かれるかもしれない。
人間も動物も機械も何もかも、地球上の全ては原子という小さな小さなつぶつぶでできている。
りんごだった原子が今わたしの中にいるかもしれないし、テレビだった原子も物干し竿だった原子もいるかもしれない。
だからあらゆるものはつながっている。
そんなことを考える。

表向き日本人で東京に住むわたしだけれど、心の中に深く刻まれた、きっとルーツであるインディアン的な精神を大切に、母なる大地の一部として生きていたいと思う。

すべて この地上にあるものは
わたしたちにとって 神聖なもの。
松の葉の いっぽん いっぽん
岸辺の砂の ひとつぶ ひとつぶ
深い森を満たす霧や 
草原になびく草の葉
葉かげで羽音をたてる 虫の一匹一匹にいたるまで
すべては 
わたしたちの遠い記憶のなかで
神聖に輝くもの。

こちらは北山耕平さんの翻訳。




こちらの記事がお役に立てたら幸いです!