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積読のススメ

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

先日、同じく読書会を主催している知り合いが「積読って、読みたい本がいつも手元に積んである素敵な状態のことだと思っていた」と語っていた。

積読。一般的には、概ねネガティブな時に使われる。

読書家というものはとにかく本を集めてしまう生き物。まだ読み切れていない本ばかりが本棚の幅を利かせている方もいらっしゃるでしょう。私も、毎週のように神保町に足を運び、読書会で本をお勧めされてしまっては、いつか読むからという理由で買い漁ってしまいます。

電子書籍は全く手をつけない質なので、本棚の無い私の部屋には書生の如く本が平積みにされている。既読本が並んでいるならまだしも、未読本ばかりでは、なるほど物に支配さえれていると言われてもしょうがない。本棚を見るたびに、一体いつになったら読み切るだろうかと考えるのは確かに心理的にも不健康であろう。

だがそれでも積読はするべきだと言いたい。

まず第一に、いつの日か本に埋もれてカカカと笑いながら亡き者になるためにも、大量の蔵書は必要である(そのニーズは著しく少ないだろうけれども)。

また、今は読まなくても、いつの日か読みたくなる場合もある。積読する本というものは基本的に今現在読まなかった本、買った後すぐに紐解かなかったからこそ、積まれていると言える。つまり、既にモチベーションが下がっているのである。それを無理に読もうとする時点で不健全であろう。

先日、太宰治の「人間失格」を読んだが、あれも元々は中学時代に購入した本、つまり約10年間積まれていた本である。それをまた読もうと思ったのは、今になって近現代文学を読むモチベーションが上がったからに他ならない。いつそのタイミングが来るのかは、自分ですらわからないのである。

いつかいつかと言いながら、いつまでも読まないで終わることも少なからずある。ただ、そのいつかというものは、もしかしたら"私"ではないかもしれない。家族が、兄弟が、友達が、まだ見ぬ子供たちによって、私の本棚から選ばれる日が来るかもしれない。

私の本棚には、従兄弟から託された本があり、父や兄貴の収納ボックスからくすねた(もとい、譲り受けた)本がある。買った本人が読まずとも、私でない誰かが読むことがあるかもしれない。

だからこそ積読はやめられない。

そんな自称読書家の独り言でした。それではまた次回!

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