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"物知り"になる勿れ

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

読書会を主催していると、本当に様々な方がいらっしゃる。それこそ、哲学や経済に関して非常に造詣が深い人など、相当本を読み込んでいないと厳しいだろうなと思うことも多い。

ただ本当に個人的な主観になってしまうが、"造詣が深い"と一言に括っても、その中でも話が面白い人と、失礼ながらもあまり面白くない人がいる。

その差は何かなと思った時に、あくまでも私なりの所感だと、この人は本に書いてあることしか言わないなってことである。

物知りである(それこそ私の頭では到底覚えられない知識ばかり)ことは素晴らしいことではある。

ただ、どうしても、それであなたはどう感じたの?と訊きたくなってしまう。

あくまでも読書会で出会ったという限られたデータ(と超個人的な主観)しかないが、そのような人は小説を読んでも、物語の時代背景や環境ばかり考えている。どうも感情や心情が二の次になっている気がしてならない。

別にそれが悪いわけでは無い。そのような話で共感し合うことができる人はたくさんいるし、多分対話となれば"自分の考え"というものがでるのだと思う。

ただ、どうしても、失礼ながらも、それは本に書いてあることだよねって思ってしまうのは、かつて観た「グッド・ウィル・ハンティング」の影響だろうか。

逆に歴史や哲学に関して造詣が深く、且つ話が面白い人もいる。どれだけ話を聞いても、飽きを感じさせない人はいる。

それはどんな人か。先日読了した山口周さんの「読書を仕事につなげる技術」KADOKAWA (2015) にて、一つの回答が提示されていた。

「抽象化」を行わずに本を読んでいると、どういうことになるでしょう? 単なる「物知り」になるだけです。たくさん本を読んでいるし、さまざまな分野について知識をひけらかして悦に入っているのに、仕事や生き様ということになると今ひとつ…という人です。

同著 139頁より部分抜粋

私の苦手な抽象化である。抽象化とは、簡単に言うと、事実から細かい情報を抜いて、「要するにこういうことだ」と言えることである。

歴史や経済に関して非常に知識を持っていながらも、広い意味で捉えることが出来る。全く別の領域の話題も、関連性を持ってつなげることが出来る。それをすぐさま言語化できる人。

Aという話題に対して、一見関連性のなさそうなBやCという話題を、自然と話に組み込むことが出来る。そういう人の話は、聞いていて面白いと思える。

一方、話が面白くない人は、具体的な話に対して具体的な話しかできないと言うべきか。Aという話題に対して、それよりも高次的な情報A'しか出てこない。

それは勿論凄いことなんだけれども、専門外の話が出た時に押し黙ってしまう。物知りだから知識はあるけれども、情報を情報としか蓄えていないから、他の場面で転用できない。

確かに事実や理論、学説などを多く知っていれば、話の基礎は出来上がる。数学なんかだと、その傾向は強いように思われる。

ただしそれは相手がその事実や言葉を知っている事が前提であって、相手が定義を知っていないならば、そもそも相手の言葉を理解できない。

だから抽象化思考は身につけようって話ではあるのだが、個人的な考えを述べるとするならば、小説や物語も読んでみてはどうですかって思う。

別に小説を読めば抽象化思考が高まるとは思ってないし、そもそも小説ばかり読んでいるから、いつまでも教養が身につかないんだよなとは思う。

ただ読書ってのは、必ずしも知識欲を満たすことではないと思うし、それこそ、この本を読んで自分はどう感じたか、どう思ったのかが非常に重要だと思う。

だってその感想というものは、他ならぬ自分しか浮かばないのだから。

本の読み方は千差万別。知識を蓄えること自体が読書の意義だと考える人は少なくないから、もちろん否定はしない。何度も書いていいるが、物知りであることは凄いことである。

ただまぁ、一つ苦言を呈するならば、もっとバランスよく本を読んでみてはどうですかってことで。人と生きていく限り、知識だけでは乗り切れないこともあるんだよって。

そんな読書会主催者の独り言。それではまた次回!

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