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わたしの言葉で伝える

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

ゴールデンウィーク。連休中は、実家に帰ること以外何の予定も立てていなかったため、初日からすでに休日を持て余している。

さすがにどこかに行こうと、候補を幾つか立てているうちに、東京都現代美術館(MOT)にて気になる企画展を見つけたり。

5人のアーティストさんが、"わたしの言葉"についての思索を示す作品を紹介する「翻訳できないわたしの言葉」展へ。

仲間同士や家族だけで通じる言い回しや、複数の言語を使い分けるなど、言葉の使い方を変えることもあります。言葉にしなくても伝わる思いもあります。それらはすべて、個人の中の蓄積されてきた経験の総体から生まれる「わたしの言葉」です。

展示会のパンフレットより抜粋

「わたしの言葉」というものは、ただ単に公用語という意味ではない。

私の場合、日本人の親のもと、日本で生まれ、日本で育ったこともあって、日常会話は日本語を使用している。国が変われば、違う言語を話していただろう。

そんな当たり前のように思えるけれども、その「当たり前」だって、所詮は多数派意見のようなもの。

仮に同じような境遇であっても、その人の言葉が日本語であるとは限らない。

例えば、幼い頃に聴覚を失い、後に人工内耳の手術を受けた南雲麻衣さんにとって、母語とは一体何なのか悩むことがあるという。

辞書を引くと「母語」とは、幼少期に最初に取得される言語と記述される。この定義に当てはめるならば、幼少期に聴覚を失い、聞こえなくなった私の母語は、音声日本語になる。

南雲麻衣さん「母語の外で旅をする」より抜粋

母の言葉が「母語」となるならば、補聴器などの機会を通じてでしか、言葉を知ることができなかった人にとって、母語とはなんなのだろうかと。

それゆえに、自分は日本人で、日本で過ごしているからという単純な話ではない。中には、自分で言葉を変えたって人もいる。

ちょうど昨夜の話。神保町のワインバーにて、ロシア出身の男性にお会いした。8年くらい前から日本に帰化しているらしく、日本語もペラペラである。

名字を「山科」と名乗っているそうで、発音か表記か忘れてしまったが、母国語で「サイボーグ」的な意味に近い言葉だから選んだと語っていた。

それだって、今ほ普段の言葉は日本語であっても、その前提には母国語のロシア語があるわけで、その人の経験により言葉が作り上げられたともいえる。

話が飛躍するが、曲がりなりにもWebライターとして働いている以上、仕事では"正しい言葉"で伝えなければならないとは考えている。

ここで言う"正しい言葉"とは、誰が読んでも同じ様に解釈できるという意味だ。誰が読んだとしても、誤解や勘違いしない文章になるように心掛けている。

だけど、それは私と同じ言葉を使っていることが前提にあり、どちらかというと語彙力・読解力としての言葉の意味合いが強い。

逆に、話し言葉や、それこそnoteに書くような言葉だと「わたしの言葉」を使っている気がする。

私の父でいうと、ジュースとかがあと一口分とか残っていると、「こんちんばい残してもしょうがないだろ」と言う。

それに釣られて、私も度々使うようになっていたのだが、「こんちんばい」という言葉は、一般的に使われる言い回しではないのだと知ったのは、ほんの数年前のことである。

あとは、たまに会社や読書会で昔見たアニメやジョジョネタをブッかまして、誰にも伝わらないということもあるけど。カツ丼を「カツドゥーン」と発音するとかね。

とにかく、私の言葉は、私だけのこれまでの経験や思考により生み出されたものであって、ただの日本語ではないのだ。

そして、それはみんな誰しも、「わたしの言葉」を持っているのだと。そんなことを考える機会となりました。それではまた次回!

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