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ものすごい別れを経験したことがあるか

“花に嵐の例えもあるさ サヨナラだけが人生だ”

ようやく親しい友になれたかと思えばもう別れが近付いている。
花も美しく咲いたかと思えば直ぐに強い風に吹かれて散ってしまうという。それほどに、輝く瞬間はひと時で、人生はサヨナラの連続だ。

あまりにも有名な井伏鱒二による訳詩「勘酒」の一節だ。

巷では『別れる力』という本も出ているほど、人間が「別れ」から受ける衝撃やそれを乗り越える過程での経験値の向上や価値観の深化は相当のものだという。

私は今まで、この身を引き裂かれるような別れの経験(身内の死や大失恋)をしたことがない。
高校生の時に大切な祖父を病気で亡くした時はもちろん哀しみに暮れたが、何週間も入院中の彼を見舞い少しは覚悟をしていたこともあり、数日の忌引き期間で私の心は穏やかに回復した。
同時期に可愛がっていたペットの犬が交通事故で死んだが、それも数日泣けば傷は癒えた。
何度か訪れた失恋の瞬間も、そりゃその時は自分の不甲斐なさや相手への未練にいたく傷つき涙したが、すぐに友人に笑って話せるほどに回復した。

これはとても幸運なことだと思っている。

もちろんこの先年を重ねていけば、自ずとより近しい人との死別を経験するだろうから、放っておいてもいずれこの身は引き裂かれる。

だけど今のところ、その瞬間は訪れていない。

つい今しがたまで、狂うような別れを経験していないことが、果たして欠陥なのか、
私の浅はかさや幼さに繋がっているのか、正直よく分からない。

だけど、突然の身内の死や恋人からの手酷い裏切りを沈痛な面持ちで語る人を見ると、どこか落ち着かない気分になる。戸惑う。

彼や彼女が言葉を発すれば発するほど、「どれだけ想像しても想像しても、あなたには分からない」、と暗にメッセージされているようで、
おかしなものだが、劣等感にも似た感情が湧き、眼を伏せたくなるのだ。

確かに私にはまだ、この世の終わりのような別れの経験はない。
相談をされる度に、本や映画でその場面に出会う度に、ひたすら(無意識に)想像力を働かせ、苦しいほどの哀しみを体感しているが、
では実際に自分の身に別れが訪れたときの衝撃はこんなものではないだろう、とも分かっているのだ。

その上で敢えて言うが、
哀しみに暮れながら「あなたには私の気持ちは分からない」と言ってのける人を、私は「ひどい」と思う。

もちろん、不運のど真ん中にいる本人を直接非難したりはしないが、
同じように表現できる経験をしたかどうかで、同様の気持ちを分かり合えるかどうかを見定めるのはフェアじゃない。

一言で「死別」「失恋」と表せたとしても、
そこに至る背景や相手との関係性、本人の感受性や回復力などが異なれば、そこから受ける傷の深さや回復にかかるエネルギーは相当差が出るだろう。
その部分をすっ飛ばして、「家族を亡くしたことがない人に私の苦しさは分からない」、「永く付き合った人に振られたことがない人に失恋の痛みは分からない」、と言われれば、
そりゃその通りだ。じゃあ私が家族を亡くすまで、あなたと私は気持ちを想像し合うことすら許されないのか、と塞ぎ込みたくなってしまう。

そうじゃない。全く同じ経験をすることは叶わなくても、
これまで鍛えてきた感受性と想像力をフルに発揮して、あなたの哀しみに寄り添うのだ。
そのために私は人間力を鍛えてきたのだ。

私は必死に抗う。

哀しみに暮れる友人を目の前にし、アンフェアな中傷を受けながらも、
半ば一方的に側にいることで、抗う。

そうして、「別れ」に寄り添うに丁度いい距離感が分かっていくんだと思う。

#友人 #別れ #処世

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