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僕と1.17 ①

「わたしたちの神戸」

1.17は、やはり、僕にとっては特別な日です。当時僕は小学3年生。
 
当時神戸市の小学生は3年生と4年生で、
「わたしたちの神戸」
という副読本を使って、社会科で神戸の町について学んでいました。
生活科導入2年目だったので、初めての社会科の内容はほとんど「神戸市」についてでした。
 
長田区のケミカルシューズ工場
ニュータウン開発で山を削った土で作ったポートアイランドと六甲アイランド
ポートタワーを抱える神戸港を中心としたメリケンパーク
東西に走る阪神高速
 
3年生なりに、自分の足と自転車でウロチョロできるところから範囲を広げた「自分が暮らす町」を、おぼろげながら意識するようになった頃でした。

「ぼくのとこに来い!!」

当時、マンションの11階で、僕は弟と、父が作った2段ベッドに寝ていました。
弟が上段、僕が下段。

前の日、1/16は月曜日ですが成人の日で、家族で買い物に行った後テレビを見てゲラゲラ笑い、いつも通り弟と2人で学校と幼稚園の準備をしてから寝ました。
 
そして、5時46分。
 
夢うつつに目が覚めたと同時に、真っ暗な中、激しい上下の揺れで咄嗟に布団を被ろうとしましたが、揺れによってうまく布団を被ることさえ出来ません。
よく例えられる通り、瓶の中で振り回されているような揺れでした。恐怖を感じることさえ出来ず、訳がわからなかったのを覚えています。
 
そんな中でも、さすがは兄弟、僕は何かを考えた訳でもなく、
「ひろき!(弟の名前)僕のとこ来い!!僕のとこに来い!!」
と、叫んでいました。
自分の布団を被ることさえままならない9歳の兄は、しかし、「お母さん」でも「お父さん」でもなく、弟の名前を叫び続けました。
 
後になって分かったのですが、当時6歳の弟は地震の揺れで目が覚めることはなく、スヤスヤと寝ていたとのこと。

真っ暗な部屋で

揺れは実際は30秒もなかったようですが、布団を被ろうともがきながら、弟の名前を叫びながら、何分も続いたように感じられました。
 
揺れが収まり、父と母の声が聞こえてきました。
 
玄関を入ってすぐの部屋で、入口の扉は倒れた下駄箱が塞いでいました。
 
寝ぼけながらの弟が先に、続いて僕が父に引き上げられ、下駄箱の上を超えて部屋を出ました。

父に引き上げられる時、それまで全く感じていなかった得体の知れない恐怖が襲ってきて、僕はベソをかきかけましたが、父と母の「大丈夫や、泣かんでええ。」の声に、グッと泣くのを堪えました。

停電のためテレビはもちろん、電気もつきません。
真っ暗な部屋の中、懐中電灯と携帯ラジオ、といっても、ポケットに入るようなものではなく、お弁当箱のようなサイズのラジオだけで、家族4人が固まって布団を被りました。

「明るくならな、どないも出来ん。とりあえずお前らは寝とけ。」
と、もう一度寝るように言われました。
弟は素直に、夢の世界に戻りましたが、僕はとても、寝られたモンではありませんでした。

避難

玄関の方から、声が聞こえてきました。何を言っていたのかは分かりませんでしたが、父が出たところ、どうやら、隣近所の人たちで「このまま部屋に居るよりも一旦外に出た方がいい」ということになったようです。

倒れた下駄箱を起こし、靴を履きました。

玄関に置いてあった、夜店で貰ってきた金魚の水槽が割れ、ガラスの破片が飛び散っていました。

11階から階段で地上まで降り、マンション敷地内の公園で、友達家族と何組かで同じ場所にかたまりました。
父のラジオの周りに、他のお父さん達も耳を寄せていました。
「垂水区のマンションが倒壊したらしい。」
「火事が起こっているらしい。」
「この辺が一番揺れたみたいやな。」
AMラジオの不明瞭な声は子供の僕にはうまく聞き取れませんでしたが、それでも、アナウンサーが錯綜した情報を伝えようとしていたのだけは覚えています。

子供の僕らは、友達に会えた安心感と、非日常のワクワクと、それを楽しめるはずもない大人達の普段とは違う様子の中で、なんとも言えない時間を過ごしていました。
余震のたびに、
「うぉ!!また揺れた!!」
と、声をあげていました。

東の空が赤く染まる

やがて、東の空が赤く染まってきました。
ですが、たまに早起きした時に見る夜明けの空とはなんだか違うように感じました。
少しくすんでいるような、そんな空の色でした。

「こんなん飛んで来たで!」
同級生の酒田くんが手に持っていたのは、燃えた原稿用紙の一片でした。
おそらく僕らと同じ年くらいの子供が書いたであろう作文の文字がそこにありました。

この辺りになってようやく僕にも、
「とんでもないことが起こったんやな。」
ということが分かってきました。

外にいるままでは寒いので、父が車を出し、その車の中で弟の幼稚園の友達、京ちゃん家族とラジオを聞いていました。

しばらくして、父と京ちゃんのお父さんが、
「とりあえずいっぺん部屋に戻ってくる」
と、部屋に戻り、車の中は母と京ちゃんのお母さん、僕と弟、京ちゃん兄弟の、"女子供"だけになりました。

「今、もし、もう一回大きな揺れが来て、お父さん達が帰ってこれなかったらどうしよう…」
そんなことが頭をよぎりましたが、ほどなくして父たちは車に帰ってきました。

父はコーンフレークの箱を持って来、僕らはもちろん牛乳もかけられずに、ボリボリとコーンフレークをかじりました。

非日常の始まり

幸いなことに、僕が住んでいた地域は、空が明るくなった頃に電気が復旧しました。

それでもエレベーターに乗るのはなんだか怖く、もう一度階段で11階まで上がったと記憶しています。

明るくなった部屋を見ると、食器棚から食器が散乱していたり、壁紙に亀裂が入っていたり、地震の爪痕はそこかしこに残っています。
割れた水槽から飛び出した金魚達は息絶え絶えにピタピタと玄関の床を叩いていました。
結果的にこの金魚たちはこの後数年生き延びました。

テレビをつけると、ヘリコプターからの映像で、火災によって真っ赤に染まった町や、倒れまくったビルや高速道路、
そして街からの中継では、大きく傾いたマンションと、そこから避難して崩壊するのを待つしかない住民達、陥没した大開通り、
アナウンサーが繰り返す、
「今朝5時46分ごろ、神戸市を中心に震度6(当時)の地震が発生しました。」
という映像が流れていました。

変わり果てた姿の「わたしたちの神戸」がそこにありました。

「学校は、今日は行かんでええかな。」
と、思っていた頃、先生たちの声がマンションの下から聞こえて来ました。たしか、平山先生だったように思います。

電話も通じなかったため、休校を伝えに来たようです。


 
つづく

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