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理解するとかしないとか

多分また、いつものように読みにくい文になる気がする。
端的にスッと要旨をまとめられる人を尊敬する。

長いので、よっぽど暇な人か、僕の文章が読みたいという特殊な性癖をお持ちの方以外は、
理解を強いる矛盾
まで飛んでください。

理解するとかしないとか。


僕はたまたま、いわゆるマイノリティとされる方との接点や、知る機会が多い方だと思う。

ネットの情報は、僕に合ったものを上に表示するので、僕がそういった記事や文章を多く見るのだと思うんだけども、
「○○理解」
という文言をよく見る。

他の人はそうでも無いんだろうか。


○○の中には、例えば障害者とか、LGBTとか、育児とか、そういう言葉が入るんだけども、僕はなんだか、よく分からなくなってきている。しっくりこない。


「はったつしょうがい」と言った言葉がではじめた頃は、
「うん、その通りだ。もっと理解が進んで広まらないといけない。」
と、なんの疑いもなかったんだけども、
最近なんだか、やはり、よく分からない。


こんな僕にも大親友と呼べる奴が何人かいるんだけど、僕はそいつのことをほとんど理解していない。
深い話をすることなんて滅多にないし、どこか小っ恥ずかしくなって、だいたいは途中で終わる。

今思い浮かべても、そいつが何が好物だったか、何が食わず嫌いだったか、政治的にはどの立場か、服のサイズはどれくらいか、何にストレスを感じるのか、何を喜ぶのか、ほとんど分からない。

それだけではない。

家族でさえ、過ごした時間ほど深く理解出来ている気はしないし、この歳になってもしょっちゅう口喧嘩をする。向こうもこっちを分かってない。37年も親やってりゃ、これをすれば僕が怒ることくらい分かりそうなもんなのに、ということを、する。逆もまた、だ。


ましてやそれが、他人ともなれば、ほとんど、知っているのは名前くらいのものかもしれない。

それどころか、自分のことさえ、よくわからない。
なぜかすっごく憤ることもあるのに、めんどくさいとなったら手をつけない。
車は何時間でも磨くのに、部屋の掃除は腰が重い。


何をどれくらいやったら疲れるのか分からないし、自分の体調も悪くなってみてはじめて、「昨日のアレは少し調子が悪かったのか」というくらい。

相当ひねくれたへそ曲がりということだけはよく分かる。

僕の利き手の話

ところで、僕は自分の利き手を知らない。
いわゆる直された右利きで、箸とえんぴつは右、テニスは左、ゴルフは右、ハサミは右、ノコギリは左、といった風でまあまあ困る。カッターナイフについては、どちらでも使えるし、どちらもしっくりこない気もする。

一番困るのは、投げるのは左なのに、受けるのも多分左なのだ。
小さい頃に左利き用のグローブが無くて、そこまで野球にも興味がなくて高校生くらいになってから仕方なく右手にグローブをつけるようになったけど、りんごを投げられたら多分左で受ける。
なので、草野球というものをやったらどうなるだろうと思う。

メリットもある。少し。
ナイフは左、フォークは右がそれぞれ利き手で使えるので、これは右利きの人より便利だな、とは思う。

よくある右脳と左脳の話も、半信半疑ではあるけれど、もしそうなら結果的に両方バランスよく使えているかもしれない。

いまだにパッと手を出した方が利き手、としか、判断できない。

それでも、なんとか暮らせている。

↑のバナナの絵の話

妹がタイトル画像にしたバナナの絵を描いてくれた。
妹と言っても、僕が勝手にそう呼んでいるだけで何の血のつながりもない。共通点は一回り違いの丑年ということくらい。そもそも、知り合って2年そこそこだ。

慕う先輩を「兄貴!」と呼ぶように、僕は彼女を「俺の心の妹!」と何をきっかけにかそう呼ぶようになって、なんとも可愛い妹分として相手をしてもらってる。向こうはどう思っているのかは、知らんけど。

彼女はSMAという障害がある。障害というのは、彼女にあるのではなくて、彼女が暮らす上で障害となっているもの、なのだけど、「寝たきり」と言えばなんとなくイメージはわくかな。
驚くことに、彼女は自発呼吸もないそうだ。常に呼吸器が必要なので、先日は「呼吸器使えない時はかわけんがバクバク(よくドラマで救急隊員がやってる手動の呼吸器)してね。」と言われた。

生まれた時から僕は「よし、呼吸しよう」と思ったことがないのだけど、おそらく僕が水の中に潜ったような状態なのかな、と想像はする。でも、理解は出来ない。
他にも色々困ることがあるっぽいので、その都度教えてくれる。

僕に出来ることは「ほう、そうか。」と、手伝うし、出来ないものは、出来ない。

シレッと「言われた」「教えてくれる」と書いたけれど、もちろん?彼女は声も発しない。専用アプリを入れたPCと、接続した視線入力装置とでコミュニケーションをする。

このバナナの絵も、その視線入力装置を使って描いてくれたもの。
「太い眉毛描いておけばかわけんになるやろ。」くらいに思われている気がしないでもないが、可愛い妹が似顔絵を描いてくれるのは嬉しいもんだ。


理解出来ないという前提

人間、関係が深くなるほど喧嘩になるというのは、例えば親子がそうだけど、特に母子関係などはもともと一つの身体を共にしていたくらいで、強烈に強い関係で、
だからこそ母親というものは多く、子供に腹を立てるし、思春期は親に歯向かってみるし、それは「理解してくれるはずでしょう!!」という期待があるのかもしれない。

付き合いたての恋人は滅多なことでは喧嘩しないだろうけれど、ある程度経ってくると、つまり関係が深くなると、「理解してくれるはずでしょう!!」が強くなるんじゃなかろうか。

そしてさらに月日が流れて、ある種の諦めで喧嘩しなくなるか、お互いの沸点だけ、あるいは冷まし方だけ、知るようになるか、喧嘩<<<共に過ごす、という関係性になっていくか、どれかじゃないだろうか。

いずれにしてもどこまでいっても、理解は出来ていないのじゃないだろうか。

理解していれば、喧嘩にもならないし、何かを伝える必要すら、ない。
それこそ、阿吽の呼吸の域。

恋人や家族なら喧嘩もいいだろうけれど、それだけ近しい関係でも、いや、そもそも、自分でさえも理解出来ないんだもの。

他の人のことが本当に理解できるはずがない。
自分ではない人のことを理解しようということに、おこがましささえ感じる。

理解出来ない、という前提こそが、本質じゃないだろうか。

理解を強いる矛盾

ここまでで言いたかったことは、僕が冒頭に書いたしっくり来ない感じは、そこなのだ。

自分と対等な立場の別人格、つまり、世の中の多数派の人は、世の中に溢れる自分以外の多数派の人のことを、いちいち理解しようとはしない。
見ず知らずの他人のことをわざわざ理解しようとせずとも暮らしていける。

そして例えば職場だとか、恋人だとか、ママ友だとか、距離が近くなった時にはじめて興味をもったり、より深く知るきっかけが生まれたりする。

先に理解するしない、があるのではなく、
先にあるのは何らかのきっかけ、関心のはず。

突然、「因数分解を理解しなさい」と言われて、「よーし!因数分解を理解するぞ!」って子は、そもそも数学に関心のある子だろう。

大半は、それを知ることでのメリットだったり、あるいは因数分解のページを開く前の教員やクラスの雰囲気や授業の
展開だったり、があって、初めて、「じゃぁちょっと覗いてみようか。やれやれ。」ではないか、と思う。

そして、やはり大半は、因数分解を理解出来た、ではなく、何となく「そういう方法があるのねー。」で止まる。

教科書に載っていることは、どちらかと言えば理解を強いていること、になる。
 

これが趣味や興味のあること、だと、放っておいても誰かに聞いてみたり、本でもwebでもYouTubeでも、探し回ってみたり、そうこうするうちに勝手に理解が深まっていく。だれが理解を強いたわけでもないのに。

本来、人間関係とは後者じゃなかろうか。

果たして、「○○理解を!」と、訴えることは、訴える側の気持ちは痛いほど伝わるんだけど、訴えられる側にしてみると、何だか、窮屈に思えてしまう。あるいは、当事者もそう感じているかもしれない。

先に、職場や教室、そして街など身近に、「そういう人ってたしかにいるなぁ。」「なんだ、だからいつもブツブツ言ってるんだ。」「色々と不便だろうなぁ」という弱い興味が広がらないと、
本来目指していたはずの、
「誰にとってもそこそこ暮らしやすい社会」
には繋がらない気がする。

所詮は人と人なのだ。

例えば障害者という人がいるわけでも、LGBTという人がいるわけでもない。

「僕は健常者です!」
という人がいないのと同じ。

ある人が、今の社会の暮らしにくさが視覚によるものならそれを視覚障害、と呼び、
ある人が(身体的な)異性以外に性的な関心を持っていることや、自身の心身の性別などにより、暮らしにくさをもっているのなら性的マイノリティと呼ぶ。

ある人が学校の責任者なら校長先生と呼ぶし、
ある人が満7〜12歳になる4/2〜4/1の年度にいれば小学生と呼ぶのと同じ。

その人は、その人以上でも以下でもなく、ただの人。通行人Aでしかない。

そこに関しては、70億人が完全に対等な立ち位置。

暮らしにくさや困りに名前が付いているだけ。

校長先生の苦労など、理解しようにもできないし、小学生の学校帰りの気持ちは自分の経験と重ねる程度のことしかできない。

必要なのは「正確に理解は出来ないけれど、知ってる」ことだけ。

目的は理解してもらうことではなくて、
「同じ社会の中で、互いに理解し合えなくとも、それなりにお互い折り合いつけて暮らしてるよね。」
「同じ社会の中だから、誰かがあまりに困ることは減ってく方向に改善していきましょう。」

というところじゃないか、と思う。
それはそのまま、今の多数派の人たちが社会の中でそうやって暮らしているように、だ。

そのスタートラインに立つことすらままならないのなら、それは社会としてもう一歩進めていきましょう、お互いに「知ってる」というところまでは。

そこから先は「人と人」だから、理解するもしないも、お互いでご自由にどうぞ。じゃないのかな、と、思うんだ。

4000文字超えたけど何が言いたかったのか書けば書くほどボヤけるね、やっぱり。

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