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「包丁を胸に突き立てたあの日、ボクの陸上人生は始まった」

はじめに、軽く僕の自己紹介から。
川西裕太(カワニシユウタ)1997年12月生まれ
大阪生まれ大阪育ち

2022/3月の川西裕太です。


自殺を考えるような鬱状態から日本一になる話なんで、長いと思うけど最後までお付き合いよろしくお願いします!



自分の感情をそのまま表現したいからバリバリの関西弁でいきます。

まず、なんで包丁を胸に突き立てたかっていうと
中2の時に左臀部を肉離れして歩かれへんくなった。
そのときに歩けへんやつが陸上なんて無理やんって思ってた。治っても走られへんって思ってたから。
自分から陸上取ったら何が残るんよってなった時に、当時はもう勉強はそっちのけで陸上で高校行こうとしてたからお先真っ暗やわ、死ぬかってなったのがキッカケ。


今はめちゃくちゃポジティブやけど、当時の自分はネガティヴ思考。まあ、みんな怪我したらネガティヴ思考になるやろ?死のうとは思わんやろうけど。

まあそれは置いといて、こんときにはもう陸上競技で高校行こって決めてた。

これにはちゃんとその頃なりの理由があって、大阪府の年齢別の大会で5番やったっていうのが決定打。
この大会は近畿大会に繋がる大会で3番やったらなれるやろって思ってたのに5番やった悔しい思いした大会でもあるんやけど。
けどまあ、大阪で5番なれたし来年もこのまま頑張ったら大阪でトップ10にはおるやろうから高校の推薦貰えるやろっていう考えで高校は陸上で行こうって決めてた。

ほんでこの考えやったのに、左臀部の肉離れをしてまう。
肉離れなんか後にも先にもこの一回だけで、痛すぎた。
普通の怪我じゃなかった。

中2の9月の堺市の総体で左臀部の肉離れ。
通ってた中学が陸上の強い所で堺市の総体で総合優勝を狙うような陸上部。
中1の時は総合優勝してて、部活として連覇を狙ってる年やった。
こんときには、大阪で5番になってたから堺市では無双できるやろって思ってた。
走る前から足痛いって言うてて自身は走りたくなかったのに、総合優勝がかかってるからって顧問に言われた。
スキップが痛くなかったら走れるからって言われて痛みなくスキップが出来てしまった。
顧問の理論だと走れるから走ることになった。
全力はさすがに怪我するやろうから流していいから勝って8点とってこいって顧問に言われた。
優勝が8点 8位が1点っていう配分

案の定、予選は楽勝で95mまで1位で流してた。
ほんまにあとちょっとでゴールの所で最後の最後ちょっと他の人の足音が聞こえてきた。
足音なんか聞こえやんやろって思ってたから、力んでもうた。次の瞬間なんか、「ぱこっ」て聞いたことない音が聞こえた。
誰かなんかしたんかなって思ったら膝から崩れ落ちる自分がおった。
なんとか1位でゴールしたものの。
ゴールこそ出来たけど、そっから痛すぎて立てない状態。
ハイハイも出来ずに周りの人に助けてもらって立つ始末
ゴールのちょっと奥から見てた顧問。
何してんねんって感じの冷たい目で僕を見て、大丈夫かだけで終わり。
その後めちゃくちゃ動いてくれたんは、同じ中学の友達のお母さん、車で治療院に連れて行ってくれた。
そこの治療院で言われたんは、左のお尻ちゃんと肉離れしてるなあって、とりあえずアイシングしとくわなって言われてから1時間はアイシングしてもらってた。
そんときは、このアイシングが終わったら歩くことは出来るかなって、でも現実は甘くなくて歩こうとしたら脳天から爪先までほんまに電気が走った。
え、これ一生続くんかなとか思ったりしたけど、その日は試合にも出てたし疲れてたから疲れ果てて寝た。

後から知ったんやけど、結局この総体は自分抜きで普通に総合優勝してた。
走らんくてよかったやん。ってめちゃくちゃ思った。

肉離れを顧問に伝えた次の日、顧問に紹介してもらった病院に行ってレントゲンを取った。
診断結果は、1ヶ月安静で治る肉離れって言われた。
今思い返したら、この病院めちゃくちゃええかげんな診断されてるし、なんでMRI取らんかったんやろうか、せめて松葉杖渡せよ、ヤブ医者紹介されたんかなって思ってまう。

このときは、この病院の言う通りにしたから1ヶ月は安静にしてた。
この1ヶ月の記憶を正直全然思い出せなくて、めっちゃ辛かったんやなって思う。

言う通りに1ヶ月で安静にしたからよし、治った。もう歩けるやろって思ってベットから降りたのに、また脳天から爪先まで電気はしって、またやん、全然治ってないし嘘つかれたやん、最悪や、って精神的にただでさえ落ち込んでたのにめちゃくちゃどん底まで落ちた。

こんな状態でも、3日完全に学校を休んだら行かないとあかんってお母さんに言われて学校には行った。
もちろん歩けなくて、右足のケンケンしか出来へんから移動手段はお母さんの車での送迎しかなかった。
お父さんは単身赴任で日本におらんくて、お母さんも働いてる家庭やったから、毎日の車での送迎は無理やった。
行きはいけても帰りは無理って感じの日が来た。
その日は、友達に肩かしてもらいながら一緒に帰ってもらった。
松葉杖はなんでかわからんけど、そのとき貰えてなくて不意に左足が地面に着いたら脳天から爪先まで電気が走った。
これいつまで続くんやろってなってた。
普段は20分あったら余裕で家から中学までいけたのに、その日友達の肩を借りながら1時間半かけて、帰った。
そんときに、なんでこんな時間かけて帰ってこなあかんねんってなった。
もう学校行くんやめよって。お母さんにも迷惑かかるし、友達の肩も毎回1時間半も借りるのなんか迷惑でしかないやろってそれやったら外出やんかったらええわってなった。

部活動には顔すら出さずに逃げるように帰ってたから、朝学校に行ってから家に帰ってからはめちゃくちゃ時間があった。
暇やったから今後の事を考える時間がいっぱいあって、そんときに今の自分から陸上取ったら何が残るねん、死んだ方がマシかって本気で思った。
どうにかして台所までいった。
台所までいって、包丁を探して、死んだろって思った。
包丁を自分の心臓に向けてあとは突き刺すだけって所までいった時に、めちゃくちゃ死ぬことに対して恐怖がわいて包丁を投げ捨てた。
その時に、「死ぬのは怖すぎるから頑張って生きよ」って決めた。

今の自分に出来ることは陸上しかないってなった。
まず出来ることは外に出て治療に行くことからやなって考えて、治療+リハビリをしてる整骨院を顧問じゃない中学におった陸上してた先生に教えてもらった。

治療をしてくれた先生に陸上復帰するなら目標決めてやろうやって言われた。
元々負けず嫌いで、中途半端はもっと嫌いで熱しやすくて冷めやすい性格やった。
そんな、川西少年は割とすんなり目標を決めれた。
「やるからには中途半端は嫌やな、ほんなら日本一目指そ」って心に決めた。もちろん100mで。

目標決めてからは、治療+リハビリの繰り返しやった。
とりあえず、ずっと動かさずに安静にしてたから、めちゃデカいシコリが出来てて、それを少しでも小さくする治療からやった。
治療はめちゃくちゃ痛かったけど、我慢するだけやったから自分的には余裕やった。

リハビリは正直めちゃくちゃキツかった。
中学時代の川西少年は部活の練習を1/3くらいしかやってきてなかったから。
これはなんでかって言うと、シンプルに体力が無かったっていうのと、サボってたから。
けど、成長期で身体には恵まれてたから、なんか知らんけど足は速くなっていってた。
当時は、練習せんでも足速くなるから自分が大事そうやなって体感したやつだけやってればええわって本気で思ってた。
練習の中でも補強が1番嫌いやった。
けど、リハビリなんて補強でしかないから、めちゃくちゃキツかった。
全部自重トレーニングやったのに、ほんまにキツかった。
1回目のリハビリ受けて、ほんまにキツすぎて、お母さんにもうやめたいって言うくらいキツかった。
けど、自分で決めた事を投げ出すのはダサすぎるし、「死ぬのは怖すぎるから頑張って生きよ」って決めたから継続できた。

リハビリは整骨院に行かない日は毎日与えられた宿題みたいに家でやる。キツかったけど、自分がキツいだけで状態の悪化は無く、少しずつ少しずつ良くなっていった。

治療はほぼ毎日。
リハビリは週1回、月4回のペースで宿題の成果を見せる感じ。ちょっとずつ内容が変わっていった。 
治療もリハビリも10月から3月の5ヶ月間通った。

中学のグラウンドに戻ってきたのは、3月から。
この頃には、歩けるようにはなっていた。
リハビリで出されてた日課をするのと部活の手伝いを軽くしてた。
ジョグ出来るようになったのが4月初旬から。
最初、めちゃくちゃ怖くて再発したらどうしよ。っていう感情と戦いながら恐る恐るジョグしたら案外出来た。
ジョグが出来たから軽くやったら走れるかなって思ったのが1週間後くらいで、今度はいけそうって思ってたからすんなり軽くなら走れた。
走れた時の楽しさ嬉しさが果てしなくて、改めてうわぁやっぱり走るんおもろいなあって色んな人に感謝した。
次は全力のダッシュやなって思ったけど、2週間くらいは軽く走ってよって勝手に思って、すぐには全力ダッシュしなかった。
2週間経って、よし今日やったら全力ダッシュ出来る気がするって思った日が来た。
すぐ実行に移して、やってみた。
いけた。走れた。全力で。
もう走れないって思って自殺までしかけたけど、今自分走れてるやん、最高ってなれた。
ずっと我慢してたのが色々、嘘みたいにモヤモヤが弾けた。めちゃくちゃ嬉しかった。めちゃくちゃ楽しかった。
うわ、自分めちゃくちゃ走るの好きなんやなって感じれた。

最初の試合が流して自己ベストやった。
正直、やばすぎた。
今年はほんまに自分の時代きたやろって思った。
そこから、目標で決めた日本一をよりリアルに考え始めた。
次は、近畿大会に出れるかどうか決める大会に挑んだ。
2番になれた。3番までが近畿大会に出れる条件だった。めちゃくちゃ嬉しかった。
100mで初めて近畿大会に出れる権利を得た。

近畿大会は大阪開催で、優勝目指してたけど、4番やった。初めて大会の結果で泣いた。
準決勝で11秒05で大ベストやったから勝てると思ってた所の4番やって、失敗レースしても3番にはなれるやろって思ってたから泣いた。

全国大会は全日本中学陸上(以下全中と記載)とジュニアオリンピック(以下JOと記載)があった。
共に標準記録があった。
全中は標準記録を突破していて、権利を得ていた。
JOは挑戦記録会があって、そこで1番やったら標準記録を切ってなくても出れる仕組み。

先に全中があった。
千葉県で行われていた。飛行機で顧問と2人で行ったのを覚えている。
そして、めちゃくちゃ緊張した。
日本一を決める大会に初めて出場したから。
予選はなんとか通過したけど、準決勝でぼろっぼろに負けた。
準決勝のウォーミングアップをサブ競技場でしていたら、
警備してたおっちゃんに声をかけられて、なんやろって思ってなんですかって聞いたら、兄ちゃん顔青いけど、大丈夫?って言われた。そんくらい、緊張してた。
そんなやつ、勝てへんかあって終わってから思った。
次、日本一決める大会出れる時は自信満々で出ないとあかんなあってなった。



JOはその時同じ学年で100mで誰も標準記録を切ってなかった。結構高い標準記録やった。たしか、10秒80やった。

JO挑戦記録会は、いつも2番やけど今日勝ったらまた全国大会出れると思って挑んだ大会やった。

予選から10秒98+1.7でベストやった。けど、2着やった。100mを10秒台で走る中学生は8年ぶりやって大会の放送でアナウンスされてた。へぇ、割と凄いやんって自分で声に出したのを覚えてる。

決勝は10秒95+2.0でベストやったけど、やっぱり2番やった。
目標にしてた、100mでJO出場は出来なかった。
けど、大阪府代表のJOのリレーがあった。存在自体を全然知らなくて何それってなったんやけど、2番やったから選んでもらえた。

JOは日産スタジアムで開催されていたから、横浜まで新幹線で大阪府代表で移動した。
全国的に大阪の陸上は強かったから、組織としてしっかりしてて、安心感が凄かった。
JOリレーはちょっと変わってて、中3が2人中2が1人中1が1人っていうチームメンバーにしないとあかん決まりがあった。
緊張もしたけど、楽しさの方が強かった。
自分より速い同期と自分と一つ下の大阪1番とその下の年の大阪1番の子とリレー組んだら負ける気なんかせんかった。
予選は難なく余裕で通過した。準決勝は自分がマーカーよりだいぶ早く出てしまって後一歩でも足が前に出てたら失格になってしまう所だったが、なんとか耐えてギリギリ組1着で通過した。
まじでやらかしたと思ったけど、通ったからなんでもいいよって色んな人に声をかけてもらった。
決勝のレースを走る前に、円陣を組んだ。
リレーを担当してる先生に、準決勝で川西がやらかしてギリギリやけど組1着やった。普通にやったら勝てるやろ!勝ってこい!ほんなら、3連覇や!って鼓舞してくれた。そんときまで3連覇が掛かってるのを知らなくて、え?まじでってなってたけど、それよりも次はやらかさんと自分の持てる力全部出し切って日本1なったろやないかいってなった。
結果は2番のチームと0.01秒差で1番になれた。
日本一になれた。叫びまくった。めちゃくちゃ嬉しかった。

肉離れして鬱になって自殺しかけたけど、もう一回陸上頑張るって決めた時の目標にした、100mで日本一は残念ながら無理やったけどリレーでほんまに日本一になれた。

「死ぬのは怖すぎるから頑張って生きよ」

「やるからには中途半端は嫌やな、ほんなら日本一目指そ」

この2つ心に決めて、頑張ったご褒美で
ほんまに日本一なれた。

真ん中の右上が川西です。



ちょっと時間が経ってから、夢が出来た。
リレーで大阪代表として日本一の景色が見れたから、
次は「日本代表として、日の丸背負って4×100mリレーで世界一」目指して頑張ろって。

今現在はまだまだ日本代表には遠いけど、この時描いた目標に向かって。


「死ぬのは怖すぎるから頑張って生きよ」

「やるからには中途半端は嫌やな、ほんなら日本一目指そ」

この2つの心に決めた言葉は今でも日々の原動力。

「日本代表として、日の丸背負って4×100mリレーで世界一」

今もこの夢を追いかけてます!


最後に、ここまで読んでくれてありがとうございます。
あと2つ僕の人生のターニングポイントがあると思っているので、出来上がり次第投稿します。
良ければまたお付き合いください!

当時は中学の顧問の先生には偉い目に合わされたと思ったけれど、今は感謝しかないです。
この怪我がなかったら今の僕は、形成されてないと思ってます!

ありがとうございました!

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