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無理に共感しなくて良い

 「共感」と「理解」の違いについて、多くの人が書いていて、納得できるなあとか、素晴らしいとか、その表現に対して、もうそれ以上私に言えることはないと思っていた。でも結局自分なりに思うところはあるので私の目線から。

 まず誰もが気になるのが、SNSを通じての共感だろう。私自身も、ツイッターには共感を求めて、映画の話題や、そうでなければ、スピード感や画面に圧倒されないもので埋め尽くすようにする。noteだって、フォローできる数が少なくて、性格上、すぐには増やしていけないけれど、自分の好きな人たちの文章で自分のページを埋めていけるのはとても気持ちが落ち着いて嬉しい。

 だけど、誰だってそうであるように、どんなに気の合う人でも違う部分て出てくる。「あっ。この人はここが私と違って、そういう風なのか」ってところが。
 そこに、完全な共感て必要ないだろう。「わかるぅ!」が万人にあれば、それってつまらないばかりか、何の刺激もなく、そして怖い社会。

 私たちに必要なのは、共感ばかりでなく、多くの人が書いているように「理解」。私にとってそれは「受け止める度量」。受け入れなくても良いのではと思う。受け止めても受け入れられなかったら、単に好き嫌いの問題。そこもまた仕方ないのではないだろうか。無理に好きになる必要もない。ただ両手を広げ、どんと来いと相手を受け止める器の大きさ、広さがあると良い。

 SNSだと、その共感が得られるばかりに、共感できない人に対して「わからない」ということを声高に言う風潮があるのは残念だ。しかも、簡単に書きこめるから、「わからない」「理解できない」をあえて言うほどのことだろうか、という場合が多い。「理解できない」は相手を傷つけて、お互い攻撃的になることもある。

 面白いことを言う、好きな有名人、趣味の物事、好みの映画や本や漫画や音楽。好きだ、面白い、楽しいと自分のポジティブな気持ちを発散させているところへ、わざわざ「理解できないわあ」と言う「水を差したがる人」。私は意地悪だなあと感じている。

 誰かにポジティブな気持ちを発散されて、自分が否定的な気持ちを抱くとする。そんな時に、わざわざ相手に「理解できない」「いやだ」と知らせる心理は、相手に少しでもイヤな気分を味わわせたいものだろうか。言われた側はさぞ傷つくだろうなあ……と、読んでいるこちら側まで勝手に傷つく。
 
 HSP(highly sensitive person)についてもちょっと書きます。
 HSPは、自分に向けられたものでないことだと頭でわかっていても、勝手に自分がその身になっておおいに傷ついてしまう。
 HSPだけでないだろうが、ちょっとした少数派なら感じる場面は多いだろう。「声高に自分たちの立場を主張して良いものなのか」。私も自信がない。
 ただ共感してほしいと思っているわけではないことを強く言いたい。
 受け止めてもらえたらそれで良い。

 へーそうなんだ。そういうところがあるのね。それだけで良い。

 以前、HSPのことを書いた時。

 何かを感じたから書いてコメントを下さった皆さんの気持ちが、本当に嬉しかった。いちいち、心を動かされました。
 そして中でも、くまのみさんの「理解した上でお付き合いできたほうがうれしいです」というコメント。きっと人と交流したい人は、皆が持っている気持ちだろうけれど、まさにこの言葉。この心を自分で持っていたい。そして人と分け合いたい。

 何も、「わかるぅ」だけがほしいわけではなく、同情してほしいわけでなく、自己憐憫だと批判されたいわけがもちろんない。

 ほとんどの人がそうだろうけれど、親しい人が皆同じタイプの人間なわけではないだろう。
 私の場合、HSPの中でも自分と似た部分が強いと、とても親近感がわき、言葉が少なくても簡単にお互いの心理がわかり、「そうなっちゃうよね~」アハハと笑う。その共感力で気持ちを吐き出してラクになる。そして、相手のそういった部分も愛おしく思うことで、自分の中の弱い部分もまた良いんじゃないかなと思える。

 相手がHSPではない場合、或いはHSPでも自分の中にあるHSPとは違う部分が強い人の場合。違った視点から物事を伝えてくれるので、流すようにアドバイスされたり、笑ってくれたり。「こういう風に考えたら良いんじゃないの?」など、そんな言葉や態度に元気づけられる。直接その言葉そのものじゃなくても、喋っているうちに、ああそうかそんな考えることないんだとか気にすることないんだとラクになり、励まされる。

 どちらの付き合いも、私には大事で面白い。

 かつて観た黒人へのインタビューが心に残っている。
 「あなたが黒人か白人か関係ない。それでも友達だ。……と言う人より、あなたが黒人だとわかってる。お互いの違いはあるだろうけど、それを受け入れた上で友達だ。……と言う人の方が私は好きだし信用する」
 その時、「なるほどなあ」と思った私の考えは、今も変わらない。まったくすべてに共感し合う必要なんてないですよね。常に共感しようとすると、共感できないことでお互いを傷つけあうことがある。

 大事なのは、お互いを知ろうとする感受性や好奇心。そして違うこともいったん受け止めてみる力。違いは環境でも立場でも年齢でも性別でも、国籍でも人種でも様々にある。多くのことを乗り越えられるものだろうと思って相手と向き合うことは、相手を尊重することだろう。相手を尊重することは自分を大切にすることでもある。

 noteでは、そんな関係を構築することも、実現できる場所だと感じている。

#エッセイ #共感 #理解 #受け止める #note

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