「誰かのために」は胡散臭い?

「みんなのために頑張っている」

なんとなく胡散臭い?

人は誰しも、自分のことが一番可愛くて自分さへ良ければいい、と思ってしまう生き物だ。

でも、これは人間に限ったことではない。全ての生き物に共通する考え方だと思える。

なぜなら、生きていくことが、生物に課された最大の使命だ。そのために、自分(だけでも)を守ることは、なにも間違っていないし、非難されることではない。

戦争に反対するのも、殺人が犯罪なのも、天災にあわずにホッとするのも、飛行機事故がどこか他人事なのも、全て”自分さへよければ良い”という意識から生まれているはずだ。生き残っていくための、当たり前の感情として。

そこに世間体が加わると、世界平和だとか、被害者の心情だとか、加害者の生い立ちといった、ストーリーが生み出される。それは、あくまで副次的なものであり、本来、我々が欲しているものではない。

我々が欲しているのは、あくまで自己の保全。

これは、我々にとっての最大限の”守り”の感情。

ただし、可能性を広げるためには、この”守り”の感情だけではことは前に進まない。

可能性を広げることとは、いうなれば、「進化」。「進化」を実現するためには、時に”攻める”しかない場面がある。

では、この”攻める”感情とはどういうものか?

おそらく、定義はない。そこで、考えてみた。

実際に存在する定義のほとんどが、表裏一体のものであると仮定すれば、”攻める”感情とは、”守る”感情の逆の考え方ではないか。

その場合、”守る”感情の究極が、「自分さへ良ければよい」というものであれば、”攻める”感情の究極は、「自分のためではなく、他人のために」ということになる。

そのため、我々が「進化」をする際に最も大きなモチベーションとなるのは、「自分のためではなく、他人のために」という”攻める”感情ではないか。

胡散臭い結論になったかもしれない。

でも、これが意外と真実だったりする。

「誰かのために」という行為は、大きなモチベーションが生まれる行為なのだ。

その結果、その”誰か”からお金をもらうというビジネスに形態が置き換わってても、その行為自体が「誰かのために」となっている間は、その行為は「進化」し続けていくのだと思われる。

もしかすると、「可能性を広げる」という行為自体が、究極の「誰かのために」という行為なのかもしれない。

「自分さへ良ければよい」という感情からは、革命的なイノベーションは決して生まれない。

いずれ誰かがやってくれる、そう思うことは、”守り”の感情だ。

「誰かのために」そこから生まれるエネルギーは、時に、自分が想像する以上の結果をもたらすことがありそうだ。


人生における
最も大事な問いかけは、
「自分は他人のために何をしているか」

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr)

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