小学生の音楽の教科書「茶色の小びん」を思い出せることは善か悪か。またはどちらでもないか。原題『The Little Brown Jug』より
某鳥のマークのSNSで書いたことをそのままこちらに書こうと思い立ちました。
かための内容です。
政治的なことも絡むと思うので、読んでくださる方は心身の調子に合わせてご無理なさらずお願いします。
※自分がこの件でもその他のことでも知識不足なので、都度加筆修正するかもしれません。
(Apple Musicにちょうどグレン・ミラーの『茶色の小瓶』がありました。歌詞表示をタップすると曲に付けられた歌詞が読めます。)
下記はほぼそのままTwitterに書いたことをコピペしてますが、加筆もあります。
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どうして『茶色の小瓶』が小学生の音楽の教科書に載ってるんだろうか。
『The Little Brown Jug』 (『茶色の小瓶』)
Jug=「瓶」でいいのか?
英和辞典で調べると、Jugの俗語がでてくる。
本来『The Little Brown Jug』はアメリカの古い民謡だ。
この曲を公教育の教科書に掲載することを決定した当時の官僚人たちは、子どもに何を浸透させたかったんだろうと考えている。
子どもに何を知って欲しくなかったんだろうかと。
「何か」を「知る前に」、子どもの頭に刷り込みたかったものはなんだろう。
これは邪推と捉えてもらって構いません。
「あ、なんか聞いたことある〜」という感覚はいろんな意味で「強い」。
特に音楽は入りやすい。
とりわけ民謡はそうだと思う。
まだ頭の柔らかい子どもという時期は、刷り込みに適した時期。
(とても嫌な言い方をしているのは承知の上です。)
その時期に、真実かどうかわからないことも子どもの頭に入ってしまう。日本語に訳すことで誤魔化せる物事がある。
ウィンナーが『The Little Brown Jug』を出版したのは1869年と上記サイト内に記述がある。
その数年前、アメリカでは南北戦争が起きていた。
私もまだ勉強不足だが、南北戦争はアメリカ北部と南部、アメリカ内での戦争であり、奴隷制度が深く関わっていると記憶している。
直接的な表現は避けたいが、『The Little Brown Jug』と奴隷制度は何かしら関係があるのではないかと今考えている。
(関係ないが昨日フィラデルフィアのクリームチーズを食べた。)
『The Little Brown Jug』は民謡だ。歌詞もある。
民謡の「親しみやすさ」をまだ頭が柔らかく吸収力もある時期である子どもへの刷り込みとして、悪用しようと思えばできる。
でも、ただただ民謡を楽しんでほしい気持ちも私はある。
きっと現場で働く学校の先生方も、ただただ純粋に音楽を楽しんでほしいと研究授業の準備をしたり、子どものために時間を惜しんで仕事をしてらっしゃると思う。
私は結論として、「情報へのアクセスをむやみに制限することが危ない」ということを今の段階では思っている。
デジタル化は今後、進む以外の選択肢はほぼ無いだろう。
ならば情報リテラシーをうまく身につけるために、時にデジタル上での「小さな失敗」をしながら(取り返しのつかない失敗ではなく、Wikipediaの情報は間違ってた、とか)、
玉石混合の情報の海から信頼できる情報を見極める目を養い、自分に必要な情報を子ども自身が自分でアクセスできるようになることが、遠くない未来で重要なのだと思う。
信頼できる目を養うためには、身に危険が及ばない程度の多少の失敗の経験は付きものというか、不可欠であると思う。
たとえば、「やってみてわかること」は現実世界にはたくさんある。
道に迷った時に、土地勘のある地域の人に道を尋ねる等も、アナログでの情報の取得法のひとつだ。
勇気を出して訊いてみないと、やってみないとわからない。
冷たくあしらわれることもあるだろう。
それでもやってみることを繰り返すことで、「慣れる」。
そこはデジタルでも同じであると考える。
「慣れ」は、玉石混合の情報の中から正しい情報にアクセスすることを助けてくれる。
デジタルでの書類作成でなんか変なボタンを押してしまったときは、「戻る」ボタンをクリックしてみる。
とりあえず再起動してみる。等、
そういう地点から始めてみることだってすでにデジタルの波に乗っている証左だ。
(今の段階では現場の先生方が大変になるのは重々承知です。)
ただ、デジタルだけを使うのではなく、デジタルとアナログを融合させた教育法はきっとアイデア次第でいくらでもあると個人的には思っている。
アナログの手法はベテランの先生に学ぶところが大いにある。
話を『The Little Brown Jug』に戻すが、言語も情報であり、曲ができた背景も情報であると考える。
教育というものの大前提として、子どもが得たいと思った情報は得られるようにしておきたい。
子どもにその判断がまだ難しければ、教材に関する使えそうな情報をできるだけ用意しておきたい。
その上で、(※教育に使えそうな情報にアクセスできる環境が整えられた上で)、どの情報を選択し、信じるのかは個人個人で違う。そこは将来のためにも自由であるべきだと思う。
しかしできれば信じた情報について子ども同士が話し合う時間が欲しい。
価値観の違いを認める練習をする、そしてその違いについて話し合って他者との折り合いをつける練習にもなる。
そしてその情報は、子どもが加害者にも被害者にもならない情報であってほしい。
ただ、前提として、今のところは塗り替えられた情報しか公教育の場や教科書に載っていないのではないかということを私は懸念している。
これは現場の先生方が今すぐ取り組むことは現実的に厳しいことはわかっている。
官僚人から降りてくる情報があまりにも少ないからだ。
私は数々の失敗を経て迷惑をかけたことから、情報セキュリティと情報マネジメントの勉強をしようと思っている。
それが教育、そして不戦という平和に還元できれば幸福だと思っている。
何度も繰り返している気がするが、公教育は、文科省ひいては国の決定にかかっていると思う。
国が今の状況を変えようとしなければ公教育の現場で働く先生方はどうしようもなく疲弊するばかりだ。
保護者からのクレームを入れられたり、不安定な情勢の中、不安定になった子どもにも対応したり、矢面に立つのはいつも現場にいる先生たちだ。
繰り返しになるが、『The Little Brown Jug』は古い民謡であり、歌詞がある。
音階や旋律、和音の構成、ビッグバンドの知識を伝えるだけではうやむやになる物事もあるんじゃないか。
日米の関係上、仕方がないのだろうか。
グレン・ミラーはなぜ『The Little Brown Jug』をジャズでやろうとしたのか。
まず、ジャズはどのようにして生まれたか。
グレン・ミラーがこの曲をジャズとして演奏し始めたおかげで、『The Little Brown Jug』は有名となり、日本では『茶色の小瓶』としてほとんどの日本人に浸透した。
これを吉とするか凶とするか。
民謡という「親しみやすさ」に、足りていなかった情報を用意して子どもに示すことができれば、子どもは自分で自分の考えを持ち、他者と対話することができる大人になっていくのではないだろうか。
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