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肯定されるということ

生きていると「価値観の違い」でたくさんの引っ掛かりや、苦しみや、モヤモヤを抱えることがある。
人には誰しも守りたいものがって、正義があって、信念がある。
それは誰かだけの問題ではなく、自分にも降りかかってくるものでもある。
そりゃ生きてるんだから、楽しいことが多い方がいい。ご機嫌でいられる方がいい。幸せだと感じる時間が多い方がいい。


そうに決まってる。


だけど、最近みんなご機嫌でいることに目を向けすぎなのではないかって思うんです。



ご機嫌でいることって本当に大切。それは百も承知の上で。
苦しめといいたいわけでもない。


でも、ご機嫌でいることで見えなくなっているものってないだろうか。



私は、子どもたちと過ごしていて思うことがあります。


子どもたちはたくさんの引っ掛かりの中で生きていると言うこと。
「なんで?」をたくさん持っている。


大人はなかったことにするのが上手だから、どうしてもそこをなかったことにしようとする。
それをご機嫌でいると勘違いしているような。


感じているのに、そこに存在していたのに。


感じなかったかのように、そこに存在しなかったようにする。



嫌だった気持ち、悲しかった気持ち、悔しかった気持ち、羨ましかった気持ち、なんでもいいのだけど、マイナスな気持ちだって持っていたっていいと思うんです。
持っていたって時がくれば必ず手放せる時がくるから。手放さなくてもいいのかもしれないけど。

持っていることで引っ張られてしまうならすぐに手放したっていい。それはきっといいものではないから。

引っ掛かりを持つことと、ネガティヴを持つことは違うと言うか。




少し前に、小学校に持って行ってはいけないものを持っていってしまって先生に叱られたと言う小2の子と話をした。

私「なんで持っていったの?」
子「他の子が持ってきてて、バレてなかったから」
私「持ってく時、持って行きたいって気持ちだけだったの?他にもなんか気持ちはあった?」
子「持っていっていいかなーって気持ちもあった」
私「そう言う気持ちもあったんだ。流されちゃったってこと?まぁ流されてもいいと思うけど。私も流されることあるし」
子「そうそう、流されちゃったのよ」
私「なんで流さちゃったんだろうね」
子「…覚悟がなかったからかな」



小学2年生で覚悟を持って生きると言うことを感じながら過ごしていることに驚いた。


目に見える事柄だけ、起こしたことだけに目を向けていたら子どもたちが何を感じて、何を考えて生きているかなんてわからない。

そして、その会話を聞いていた年中の妹が一言。「無視すればいい」とぽろっと言った。


それもまたすごいと思った。
そうだね、自分の内にいる「これやっちゃえばいいじゃん」と試してくる自分の声、無視できると最強だよね。
良いも悪いも試してくる自分がいるからこそいいのだけど、その声がなくなることが良いのではなくて、声を聞いても無視できるのって良いねと思った。




子どもと話す時、誰かと話す時、いつも一つ一つが自分にも降りかかる。



私はご機嫌でいるためにも自分に問いながら生きているのだと思う。

誰も傷つけない世界は難しいかもしれないけれど、それでもそこに向かいたい。

その人の全て肯定すると言うことは、なんでも「いいよ」と言うことではなく、その人が思う嫌な自分、嫌いな自分、あのやり方はちょっと違ったかな…と言う違和感をちゃんと誰かにもわかってもらうこと。だと私は思っています。


叱られないことがいいのではなく、注意されないことがいいのではく、違和感のある自分をそのままにしないということ。

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