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存在と時間について

なぜ人はこのテーマにこんなにも憑りつかれるのか?

当たり前の話だが、目の前の物体やその背景を流れる時間を疑っていてはこの現実世界は生きられない。

世界中の人々の共通理解の大前提とも言える現実認識の根幹だろう。

しかし、存在も時間もそれは概念に過ぎず、実体のない幻であることを人は薄々感づいているのだ。

何故か?

それはものすごく簡単なロジックに尽きる

「確固たる事実」「絶対的な存在」「疑いようのない実体」
が成立するためにはどうしても時間の幅が必要になる

目の前のリンゴでも、その素材となる原子でもいいが、物体がそこに実体として存在するには時間の幅がなくてはならない。

時間の幅が0の空間には何も入る隙間がないからだ。

こういうロジックは人間ならだれでも思いつくし、だれも否定できない

しかしここで壮絶な矛盾が生まれる。

「実体があるには時間が必要」で「実体があるなら時間はある」はずなのに、「どうやら時間は人間の概念が産んだ幻かも知れない」という推論が成り立つのだ。

―――これは、どう考えても大事件に他ならない。

たった今、「実体があるなら時間はある」と確信した自分がいるのに、「時間は幻かも知れない」と思った自分もいる。

変ではないだろうか?

世の中の大多数の人々は、この変な感覚をいわば無視して生きている。

そして、世界中の人間の共通認識の根源が揺らいだまま生きている。

唯物論から歪んだレーニン思想が生まれ、世界大戦を生んだ歴史を皆忘れてしまっている。

存在の根幹からイデオロギーが生まれ、世界が対立や分断に晒され、人は当然のように殺し合っている。

共通認識の根源がずっと揺らいだままでいる。もっと目の前の現実をよー-く考えなくてはならない。

続く



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