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止まった時間と透明な回転扉

自分の中に止まった時間がある。

生きることに必死だったが、どこにも向かえなかった時間。精一杯もがいたが、少しも動けなかった時間。

希望はなかったが、絶望しないように必死だったときの記録と記憶。

***

二年前のある日、有楽町線の電車に乗っていた。当時通っていたカウンセリングルームの帰りか散歩の帰りか、よく覚えていないが、めずらしく外出した日だった。

自分の気持ちがわからなくなってから、しばらく時間が経っていた。

すきなご飯を食べるときの気持ち
目の前で両親が泣いているときの気持ち
会社を辞めることを決めたときの気持ち

うれしいとか楽しいとか悲しいとかつらいとか、なにもわからなかった。自分の内側にぽっかりと穴が空き、あらゆるものがその穴を通り抜けて消えていった。

ボサボサの髪、青白い肌、うつろな目。生気のない顔を、電車の窓が映していた。その顔には、たくさんの問いが書かれていた。

おまえはなにものなのか
これからどこにいくのか
これからなにをするのか

電車は次の駅に向かっていたが、自分はどこにも向かえていなかった。駅と駅とはつながっていたが、自分はどこにもつながっていなかった。

電車を降りて地上に向かう階段をのぼると、すぐに息が切れた。運動しない毎日を過ごした体は、ボロボロだった。

そのときの自分は、どこかに向かいたくて、何かとつながりたかった。

きらきらした未来を描いて、具体的な目標と行動リストをつくり、強みと弱みを理解して、やるべきこととやるべきではないことを把握している状態。

自己啓発本に書いてありそうな理想に憧れていた自分の目は、現実をみていなかった。できたてのご飯をたべても、目の前で大切な人が泣いても、美しい景色をみても、何も感じられなかった。

気持ちを感じられない時間は、人として生きられない時間だった。本当の絶望は、希望を失うことではなく、絶望したことに気づけないことだった。

太陽の光がまぶしくて、日陰を歩いた。暑くないのに汗が出て、道端にすわりこんだ。空腹を感じられず、決まった時間に食べ物を口に押しこんだ。

変化のない日常のあいまいな意識に、「このままではいけない」という微かな焦りだけがあった。

気持ちはわからなかったが、感受性をなくしたくなかった。前に進めなかったが、道を踏み外したくなかった。何もできなかったが、何もしないことをしていた。

何も感じられなかったが、必死に生きた時間だった。

一日の大半を家の廊下で過ごした。床の冷たさを感じながら、目の前のクローゼットの扉をみていた。部屋の扉は開いていたが、自分の心はどこにもつながっていなかった。

つながりをなくした自分に気づけることは、ほとんどなかった。気持ちをなくすことが人間としての生が終わることだと、全身で理解した。

痛みや恐怖がなかったあのときなら、きっと線路に飛びこめた。ベランダから飛び降りられた。誰かを傷つけられた。自分が何もしなかったことに特別な理由はなく、本当にたまたまだった。

人としての生を終えられる扉が、透明な回転扉が、いつでも自分のそばにあることに気づいた。

目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
無意味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け

茨木のり子|行方不明の時間

よく磨かれたガラスでつくられたそれは、目を凝らさないと気づけない。それに気づける人は少なく、気づいても忘れてしまう。

どこを押しても軽やかに回るそれは、誰かに押されることを待っている。手を触れたすべての人を静かに飲み込むそれには、恐ろしさを超える美しさがある。

誰の近くにもそれは静かに佇んでいる。小さな子ども、生き生きとした青年、壮年を謳歌する紳士淑女、その誰の近くにも平等に佇んでいる。音を吸い込んでしまっているのか、周囲には無音が広がっている。

それに触れた人は、帰ってくることはない。扉の奥の世界に劇的さはなく、静謐な旅路が続く。

透明な回転扉は、いまもぼくのすぐそばにある。

この先、自分が透明な回転扉を押さない保証はどこにもない。一度でも扉をみた人は、それからずっと扉とともに人生を歩むことになる。

ただ透明な回転扉がすぐそばにあっても共存することはできる。本来あるそれを自覚しただけで、扉に手をかけるまでには大きな距離がある。

誰でもどんな時でも気づいてしまう
平穏な日々が続けばその存在は薄れていく
ふとした不調をきっかけに思い出すことがある

人の未来を奪う絶望は、自覚できない。それは音も気配もなくすべてを吸い込む透明な回転扉の姿をしている。

透明な回転扉をみたなら、押さないように気をつけられる。怖いのは、無自覚に触れてしまうことであり、間違って押してしまうことだ。

間違えるときはきっと一瞬で、確実に防ぐ方法はおそらくない。できることといえば、いつも誰かとのつながりを保ち、自分を過信せず弱ったときに備えることくらいだろう。

無限に続くようにみえる日々は、大きな流れや偶然の前では儚くて切ない。いくらケアしても、足りることなどない。

いつでも誰でも、間違えてしまうことがある。

たぶんきっとこれからずっと、自分の中には止まった時間がある。透明な回転扉は、いつでも自分のすぐそばにある。

気づく前と後では、世界を見る目が変わる。その感覚は誰にも共有できないかもしれない。毎日が無意味で無目的に思えるかもしれない。

ただその無意味で無目的に思える日々も、積み重なって連なると、自分なりの意味や目的を帯びてくる。人の一生の不思議さが、そこにある。

だからどうか、無意味で無目的な日々を消さないでほしい。止まった時間を過ごす自分を許してあげてほしい。

だからどうか、道を踏み外さないでほしい。いつもそばにある透明な回転扉を間違って押さないように気をつけてしてほしい。

***

前向きに語りたくなかった。読んで気持ちよくなってほしくもなかった。安易に希望を語る愚かさを知っている。絶望を語るほどの力も経験もないこともわかっている。

それでも、この文章を届けたい人がいた。

一人目は、昔の自分。つながりと気持ちを失った経験と時間は、いまの自分の糧になっているよ。深い傷は他人の理解する姿勢をつくる一助になっているよ。当時の無意味で無目的な時間は、いまの自分をつくる大切な時間になっているよ。

二人目は、いま困難に直面している人。希望を失ってもいいから、どうか絶望しないでほしい。前なんて向かずにその場にうずくまってもいいから、道を踏み外さないでほしい。怖くても悲しくても時間が解決することはたくさんあるから、どうか透明な回転扉を押さないでほしい。

読んでくださったみなさんの周りにもし困難を抱えているかもしれない人がいたら、届けていただけると幸いです。誰かの何かのきっかけの一部になれたら。





最後まで読んでいただきありがとうございます。