最近の記事

詭弁

どれだけ本気で何かをより良く作ろうとする仕事に没頭しようが、 やったことのない人間には、いつまで経ってもそれがどれだけすごいことなのかなど一生かけたってわからないのだ。 それどころか、 「それ、AIに自動でやらせたら早いんちゃう?」 「そのうちそれもAIでできるようになるんやろな」 とでも言われる始末である。 たいていの場合、君の思う「本当にいいもの」などその程度だ。 群がって、わかりもしないのに踊らされ、とりあえず喜ばしい。 「本当のところ」なんでもいい。 「ほんとう」

    • 廊下の扉は閉めずに、家を出ることにしている

      バタン、と 扉が閉まる そのことに、僕自身なんとなくかあまりプラスのイメージはない。 誰かを見送り、見送られる寂しさだろうか、これからあなたの帰りを待たねばならないという哀しみの始まりを告げる音がするのだろうか。 最近、気がついたことがある。 ドアが閉まる音というのは、何故か決まって、家の中からの方がよく聞こえるのだ。 扉の1番近くにいるのは、閉めているその本人であるはずなのに。もっと遠くで、聴いていたはずなのに。 僕だけだろうか。あなたも、そうだ、と言うのだろ

      • ジューンベリーの木

        「この世界に起こるすべてに意味があるんだ!」 という文言は、すっかり使い古され今では聊か軽薄であるようにさえ思えてしまう。 全てのことに意味がある、と結論付けてしまうことは、時として誰かへの救済となるが、時として誰かを縛り付け苦しめるものとなる。 そして時にそれは、怒らないため、或いは悲しまないために、何かを受け入れるための一見積極的にみえるがしかし実は消極的な選択に成り下がってしまってはいないのだろうか。 こんなことを書くと、誰かは怒っているだろうか。いやだが、僕がそ

        • 生き急がない勇気について|テクノロジーと無意識_ *走書き

          「慌ただしく生きているとつい忘れてしまう、静けさを、探している。そんな作品を生み出していたいと思う。」 そんなことに想いを馳せている。そんな作品を生み出す人間でいたいのならば、まずは自分が何よりそうあらなければならない。そういうものである。 では私は今日、急須から流れ落ちる水音に、心地良く耳を傾けていただろうか。ただ1秒でも、身体のすべてを呼吸に集中していたときがあっただろうか。 探しているものは、わかっている。正しそうなものも、見えている。しかし、どこかで心は、慌ただ

          はじめて、個展を開催します

          藝術家(Artist)という、なんでもアリな肩書を背負い始めて1年と6か月となる、来る11月、東京は青山『Nine Gallery』様にて、僕自身初となる個展を開催させて頂くことが決まりました はじめての「個展」、そしてインスタレーションへの挑戦、なんともわからないことばかりで、心臓がドキドキバクバクです そしてそれ以上に、どんな作品たちと皆さんをお出迎えできるのか、そこで一体何が起きるのか、心から楽しみです 以下、詳細です。入場無料だよ アートなんてこれっぽっちもわから

          はじめて、個展を開催します

          ロンドンという地で得た天啓 ‐『お前、人生かけて続けられるか?』

          「なぜ、ここに来たのだろう」 「これだけの資金をかけて、こんな時期にここまで来て、一体僕は何を得て帰るのか」 2割楽しみ、8割ビビり散らかしてやってきたロンドンへの旅路をまさに終えようとしている今、改めて、次の展示へ向けて、今後の自分の藝術家人生へ向けて、書き置こうと思う。 すべて笑って、アホやったけど、行ってよかったよなぁって、そう思える日々だったことに、1ミリも疑いはないのでね。 1. 「描かなければいけない」という鎖からの解放と「空間」への渇望2021.08.1

          ロンドンという地で得た天啓 ‐『お前、人生かけて続けられるか?』

          叙情と静寂-私たちが失いかけた『生命を宿す〈線〉』を描く

          0. 劇的な絵画[dramatic]これまで僕の作品たちは、力強くて、劇的で、エネルギーに溢れている、そんな風に形容していただくことがとても多かったように思います。それ自体、表面的には確かに自分の描くものの強みでした。 しかし、その「劇的な効果」は自分が本当に生み出したいものなのか、絵画というものを通してつくりたい体験は、その作風と矛盾ないか、そんなことを考えていました。 僕が目指すのは 『作品を通じて他者の確かな体温や呼吸、脈拍やにおい、といった類の存在に文字通り「触

          叙情と静寂-私たちが失いかけた『生命を宿す〈線〉』を描く

          イデオロギーとカタルシス、そして私は絵画と鑑賞者の境界へ往く-Talk about Art.

          さて、前回のnoteで僕は新たなステートメントを整え、この数日、ようやく制作に取り掛かることができました。 そのnoteはこれ。 「画家」でもなく「絵描き」でもなく、「芸術家」として作品をつくっていくうえで、自分の作品、その哲学を言語化し、プレゼンテーションしていけることは不可欠です。 私の作品に関わるひとつひとつを、いつどこで誰に尋ねられてもよいように、できることから、描きながら日々浮かんだことを、少しずつ言葉にしておいておくことにしました。 ということで、日々カン

          イデオロギーとカタルシス、そして私は絵画と鑑賞者の境界へ往く-Talk about Art.

          絵画芸術作品のレシピ-the recipes of art.

          これは、なんの大したこともない、覚書。僕という凡が、己の芸術性を見出せるまでの、思考の道程。 さて、前回(が一応あるんですわ)は、大まかにいえば、芸術の歴史の中で己の作品のポジション取りを考える、というようなものでした。 それは芸大にも通わず、描き始めて1年に満たなかった僕にとっては、とても意義のあることでした。しかしそこに並んだ言葉の表現にいささかの違和感が残ります。 「ちょっと、背伸びしてんな?オイ。」 惜しいんすよ。いいけど、まだ、なんかこもってないよね。そんな

          絵画芸術作品のレシピ-the recipes of art.

          アートという文脈における自己の作品の座標を探求し、自己の中心点と融合させる試み

          「淘汰」と「うたかた」 一見するとその瞬間に意義を見出すことは難しい「愛する人を傷つけること」「環境破壊」「戦争」「コロナで大勢死ぬ」のようなある種の「破壊」が、その苦しみが、必然性をもって起こっていたとしたら。いつか全てに、意味づけができるのだとしたら。 破壊は起こるべくして起こり、また新たに創造が繰り返される。もはや人間が主体として事象を捉える思考を超越した、大いなる流れの中での自然な「淘汰」 ある瞬間当たり前のように存在したものは、水泡のように次の瞬間には消え失せ

          アートという文脈における自己の作品の座標を探求し、自己の中心点と融合させる試み