猟奇的ピンク『フツウの放課後』感想

 先日、僕が猟奇的ピンクの劇伴を担当した、『関西演劇祭2021』が幕を閉じた。
 前に猟奇的ピンクに関する記事を書いたが『おいおい、音楽のことばっかで肝心な中身何も言ってねぇじゃねぇか~』というお声を頂きそうで不安になり、一言つぶやいた。

 まぁ予防線を張ったがおかげさまで二本立てとなった。しかし、関西演劇祭関連の方々が記事を沢山見てくださっているので今回の記事もスパンと書いてしまおうと決心。興味深い内容だとも思うし。

 「普通」に焦点を当てたテーマ

 さて、今回の話のメインテーマは「普通」とは一体何なのか?というテーマだ。主人公の新人教師は、何になりたいやどうしたいもあまりなく、スッと教師になった。彼女には夢や自我が無い事が浮き彫りになるが、勉強がダメダメで何にもなれず、唯一子供の頃にピアノレッスンに通っていた事にしがみ付いて作曲家になった僕からしたら羨ましい限りだ。
 なので今回のストーリーに関しては共感というよりかは「こういう人もいるんだなぁ」という気持ちで見ていた。

 だがしかし、一個だけ共通する点はやはり『未知』な物は『未知』なのである。

 生い立ちが相反していても、僕も同じ担任になれば、今回劇中に出た、女子生徒のリストカットを見るとひるむし考える。何とかしなければと考えるが、考えれば考える程、坩堝(るつぼ)にはまる。
 多感な十代、繊細だし乱暴にテコ入れすると思わぬ結果を引き出す事になる。そりゃ担任も逃げれないから暑苦しくなるよなぁ。そうじゃないとやってけない。

 高校の頃、「なんでそんな冷たい事平気で言うんだ」みたいな先生なんて山ほど居た。職員室の雰囲気も言葉を選ばすに言うと「終わってる」状態だった。今でも無茶苦茶嫌いだ。

 でももし今回みたいな生徒を何年も何十年も相手していたら…。俺なら2年で「終わってる」状態になってると思う。それが教師の「普通」だから。

 小学生の頃に習った道徳の教科書なんて『嘘』は無いがペラッペラだと思った。人間の心は足し算引き算といった単純な物ではない。こういう劇中に出る『普通』に対しての、数多なる答えを沢山導き出せる人が、世間に通用する『先生』なれるのではないだろうか?

 俺は今でもそれを放棄した先生が嫌いだ。

 …とまぁこんな印象。深く語ろうとすればもっと出てくるが、この辺で止めておかないと野暮ったい。人って難しいすね。

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