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フェン投手の球歴

はじめに宣伝

 藤浪と大谷を対戦させる「藤浪 VS 大谷シミュレータ」ってのを作ったからみんな遊んでみてね。結果をTwitterへ投稿する機能もあるから、藤浪が0点に抑えたり大谷が20点くらい取ったらフォロワーに自慢しよう!

こんな場面が頻発する面白コンテンツを目指したが
メジャー藤浪が意外に死球をぶつけないので想像より地味な内容になった

この記事、なに?

 Twitterで草野球の話をする割合が増えてきたが「そもそもこいつはどのくらい野球の実力があって発言の信ぴょう性は如何ほどなの!?」と心配になる方もいそうなので、球歴を書くことで「ほーん、この程度ね」と判断してもらう材料にしようと思った次第です。

球歴が凄すぎてファンファーレの歌詞になってしまった人

未就学期

 ディスカウントストアのダイクマで父からハンドボールの柔らかいやつみたいなのを買い与えられ、初めてボール遊びをする。これを気に入ったところ、スポンジバットとボールのセットが追加で購入される。

小学校入学~2年生

 小学校でスポーツ少年団の存在を知り、入部したいと親に言うも「4年生になったら」という謎の先延ばしを強いられる(105cm15kgという体格で付いていけるか心配されたか、既に水泳などに通っていたので追加で月謝を払う余裕がなかったと思われる)
 一方で父とのボール遊びはグローブありで木製バットと軟球を使ったものにステップアップする。もちろん道具は全てディスカウントストアのダイクマで購入した。なんでなくなっちゃったんだろう、ダイクマ……。

小学3年生

 元よりギーク気質で実のところは運動音痴な父が音を上げたのか、唐突にスポーツ少年団への入部を許される。
 地元の少年野球連盟には3年生以下が対象のティーボール大会があり、3年生の間は秋の大会に向けてティーボールを中心に練習していた。迎えた大会は打撃を評価(?)され5番DHでメンバー入りするも2タコで初戦敗退に終わる。

試合球の「ゆうボール」という球が
軟式球と打感が違いまったく飛ばなかった

 大会後は一軍、二軍のいずれかに配属されるが、当然のように二軍行きが決まった。

小学4年生

 初心者にありがちなことだが、基本的に小学生期のフェンさんは本やマンガで見た奇抜な技術や小手先のテクニックに飛びつく傾向があり、基礎を疎かにしていたので技術面の伸びが鈍かった。しかも体格もちっとも大きくなっておらず、フィジカル面でのゲインもほぼないという無理ゲー状態。

ドカベンを愛読していたので打席でクルクル回って
「白鳥の湖!」とかやっていた。干されて当然である

 そんなわけで春大会、新人戦、秋大会と出番なくベンチを温め続け、この年は秋大会後の練習試合での代打1打席に終わる。秋大会後のチーム分け見直しでも当然のように二軍残留が決まった。

小学5年生

 2軍であれば5年生になれば出番も増えるはず……という甘い目論見があったが、見事に外れ下級生が試合に出るのを指を咥えて眺める立場となる。いっときレギュラーまで手が届きかけるも、スタメンの試合で見逃し三振をしてしまい、即交代させられ万年ベンチウォーマーに逆戻りしてしまった。
 秋大会後、同級生や下級生の部員が何人かリトルリーグに移籍し、一軍二軍を分けられるだけの人数がいなくなったので一軍昇格(?)が決まる。

小学6年生

 人数不足で棚ボタ的に準レギュラーとなる。セカンドとライト、センターを守り、打順は8番か9番という典型的なリプレイスメント・レベルの選手で打率は引退まで.000からビタいち動かなかった。
 
なお、当時のキャプテンは現在塀の中にいるらしい。よく些細な理由で殴られたしさもありなん……。

中学時代

 お受験をしてお坊ちゃん学校に進学し「ここならレギュラーを取れるだろう」と甘い目論見を持って野球部の門を叩くも、あえなく3年間ベンチを温めることになる。中学になっても体格の小ささは変わっておらず、入学時に140cm30kg、中3時点で150cm40kgしかなく、スペック不足が足を引っ張った(そしてもちろんながら技術もなかった)
 引退間近に高等部から硬式バットを借りて振ってみるも全く振れず、絶望し高校では陸上部に入ることを決め、ここで一旦野球人生が終わる。

高校時代

 陸上部の長距離選手として野球と無縁の生活を送る……はずだったが、陸上の練習は基本的に時間が余るのである。どんなにゆっくり走っても3時間も走ればヘロヘロになってしまうからだ。スピード練習をすればその時間は更に短くなる。
 ということで、フェンさんは余った部活の時間でひたすら壁当てをしていた。すると次第に壁当てで磨いた投球を試したくなり、昼休みの食後の20分で友達とBPをするようになる。
「な~んだ、野球ってやっぱ面白いじゃん!」
と今更ながら気付いてしまったのである。身長もようやく伸びて、相変わらずもやしでこそあったが170cmに到達したので
「大学では草野球をしよう!」
と心に決め、部活中の壁当てと昼休みのBPをやり続けた。

 蛇足だが「陸上の練習全然してないじゃねーか!」と言われそうなので一応当時の練習メニューを書いておこう。まあ強豪校と比べたら全然緩いんですが……。

  • 共通のアップ:ジョグ1km, 柔軟, 5割くらいでダッシュ150m*3

  • 月曜日:クロスカントリー風のコースを12km(だいたい1km4分半)

  • 火曜日:筋トレ(腹筋背筋ベンチスクワットバーベルカール)

  • 水曜日:一定ペースで8km走(だいたい1km3分40秒)

  • 木曜日:自主練

  • 金曜日:インターバル走1km*5(3分10秒くらい)

  • 土曜日:25kmくらいゆっくり走る(1km6分ペース)

  • 日曜日:休み

 あと書き忘れそうになったが、高3の夏にオフ会で人生初登板を果たし、2回1失点で負け投手になっています。会場だった上野恩賜公園のマウンドは思い出の地です。その日初対面でバッテリーを組んだけーたくという人がやたら怖く感じた記憶が……w

人生初登板のフェン投手(無駄に腹チラ&パンチラ)

大学時代

 極力弱くて試合に出れそうなサークルを探し、滅茶苦茶弱くてアニオタの先輩がいるところを見つけたので入会。ラッキーなことに初期から練習試合を中心に出場機会をもらい、1回生の秋には初完投(なお負け投手)を達成。冬場につばるとというお兄さん(当時)からスライダーを教えてもらうと三振が取れるようになり、春にとうとう人生初勝利を挙げた。
 その後は2~4番手投手をウロウロしながら、公式戦出場こそなかったが3回生秋まで楽しく野球を続け、引退と同時に一般草野球へ転向する(なお、打撃の方は突っ込み癖が治らず、たまにヒットは出るものの基本的に1割台をキープした

 大学時代の成績は30試合130イニングくらい投げて8勝13敗、100奪三振130与四球くらいでした。打つ方は80打数10安打くらい。

パーフリ時代

 ここからは現在で12年目になるパーフリ生活です。
 入部直後にカバディの試合で右足負傷という草野球史上例を見ない理由で戦線を離脱するも、足を庇って練習したところ突っ込み癖が改善し打てるようになるという瓢箪から駒みたいな現象が起きる。

こんな感じのコンタクトスポーツなのだが
タックルされた際に相手の膝が大腿四頭筋に思い切り入って千切れた

 入部した年は既にリーグ戦がほとんど終わっていたため、リーグ戦には2年目から出場。

  • 2~5年目は2人ローテの一角

  • 6年目は前半エースとして投げるも打ち込まれ後半は登板機会なし

  • 7年目は3人ローテの一角

  • 8~10年目は不調で登板機会減少

  • 11年目に2番手としてやや(?)復活

  • 12年目となる今年の結果は……?

 投げる方はこんな感じで現在に至ってます。10年目の頭に冬の神宮球場で投げたところ、大学3回生からちょくちょく痛かった肩が爆発し、その夏から下手投げに転向したので、今のフォームになってからはまだ2年くらい。

この後肩が爆発する
半年くらいがんばって投げたが、打たれまくって上投げは諦めた

 バッティングの方はこんな感じ。

  • 2年目:1番ピッチャーか1番レフト

  • 3年目:6番ピッチャーか1番ライト

  • 4年目:9番ピッチャーか4番レフト

  • 5年目:6番ピッチャーか3~5番レフト

  • 6年目:6~9番ピッチャーか1番レフト

  • 7年目:4 or 10番でピッチャーかレフト

  • 8年目:8~10番レフトか守備走塁要員

  • 9年目:打順不定でレフト

  • 10年目:5~10番でレフトかライト

  • 11年目:2番か5番か6番でピッチャーかレフト

 6年目くらいからリーグのレベルが上がってきて、打順を落としつつもなんとかメンバーに残っています。外野しか守ってないあたりで守備力は察してもらえると嬉しい()
 とはいえ、最近は練習試合ながらセカンド、ファースト(あと稀にサードやキャッチャー)といったポジションも守れるようになり、若干ながら成長を感じています。

 パーフリでの成績は130試合400イニングくらい投げて35勝34敗、280奪三振280与四球くらいです。打つ方は500打数140安打くらい。
 200勝を目指して草野球やってるのでフォロワーの皆さんは対戦や助っ人依頼など今後ともよろしくお願いします!


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