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瓜と常夜灯

こんなにたくさん人が集まるんだ、すごいなぁ…

集まった人の数におどろいた。お通夜でこんなに会場が埋め尽くされているのは初めてで、駐車場には車がなだれ込んでくるし、受付にはいくつも列ができて、お焼香の前にはひっきりなしに人が集まりまた出ていく。入口付近まで人があふれててコロナが落ち着き始めてきたにしても。人徳というかこんなに人が集まることってめったにないことだろうと思った。

今年の春、娘の同級生のおじいさんが亡くなったと聞いて、足を運んだときそんなことをかんがえた。



7月の終わりごろ、仕事のピークも終えそろそろ夏休みの気分になりはじめてもいいんじゃないかとお風呂あがりにビールを1本呑むつもりで冷蔵庫に手をかけてやめた。今日はひさびさにnoteを書こうかな短くてもちょっとかけそうな気配がしたから。21時頃に部屋へ向かう。妻はいつも遅めのお風呂へ入り朝の早い僕はそのまま先に就寝するのがこの頃の習慣だった。

ふとんへ寝転がって、読みかけの本へ手を伸ばす、飽きたら書き始めよう。そんなこと考えながら時間を確認する。スワイプすると見慣れない番号からショートメール。しかもこんな時間に。知らない番号だから迷惑メールかなんかだろうと思ってたときどきそういうのあるし

なんか、ひらいてみることにした
ものすごく丁寧で、父の名前も入っていて、とても普段からメールを打ちなれている人のうちかたじゃないなって文章から伝わってきたから。

選ばれた言葉をよく読んで叔母さんだと信じることに。

葬儀は叔母さんが喪主で、すでに1週間ほど前にすませてくれていてぼくに連絡をとるのもどうしようか悩んだ末にやっぱりしてくれたという。

たまたま1週間後に帰省する予定だったので、妻に相談して1日ぼくだけお線香をあげにいかせてもらうことにした。
詳細なことがわからないから、いろいろ考えて子ども達は妻と近くの博物館へ遊びにいってもらうことにして。


仕事をしている間、ふしぎと心に変化がないなぁと思いながら過ごす。
頭の中はふだんとかわらずただ、うすーいうすーい穴があいたような、そんな気分だった。楽になったようで、でもそこに在る。

これが記憶というものなのか勝手に創り上げていた錘なのか知らないけれど。そこ以外ふだんとぜんぜん変わらなさ過ぎて変だなぁとも。

それが『変』だって思うくらい、自分の中で、とんでもない哀しみがやってくるんじゃないかとか、スッキリと心晴れやかになったぜーみたいな、どこか期待のようなものをかかえていたんだなっておもうんです

実際はそんなことない。ぜんぜん。



岡山へついて姉とも母とも少し話して、そのときも淡々と話せて、母方の実家の墓参りを済ませて叔父さんの家にいって話したときも
思い出話を聞いて「気の毒じゃったなぁ」と言われたときも、その中に出てきた知らない父の姿を想像してみても今も涙はでないもんなんですね。


猛暑日だった、昨日通らなかった新しい道をとおりながら小学生のころ僕が月一でいっていた博物館へ妻とこどもをつれていく。おおきな恐竜があの頃とおなじようにいた。
「一時間くらいで戻るから」と言って車で5分ほど走るとおばさんの家の近くについた。
電話をして出てきてもらうとおじさんもでてきてくれた。再婚してから一度しか会ったことない人だったけど面影は昔のままだった。
ふたりともそれなりに歳はとってたけど、元気そうだ。よかった。

記憶だと家にはいったことが無かったけれど、遠いところよく来たと、挨拶も早々に中へ一歩入ったら建物の影で涼しく感じられる
玄関からすぐの和室へ通されると奥に祭壇があった。

一番上には父の写真、下にはおばあちゃんの写真がいっしょに並べられている。ふたりとも昔のまま白髪と皺が増えただけに見えた。
僕の顔もよく似ていると言われた少し童顔であまりかわらない。

お供えを渡し、手をあわせても、こみあげてくるものはなかった。母も姉ちゃんも元気にしているよと届かないとわかっていながら心の中で伝えた。

おじさんがちかくの家から瓜をわけてもらったから食べてみてくれと出してくれた。白くて細長く身だけに切られた瓜がふたつ。このあたりだとよくある食べ物でメロンのような風味にあっさりとした甘みがほんのすこしついている。しゃきしゃきとした食感、なつかしい。

父がどのように過ごしていたのかが気になっていたので、看取ってくれたおばさんへどんなふうに生活していて、どんなふうに亡くなったのか聞いてみた。

正直おばさんもどんな生活してたか知らなかったらしい、ときどき顔を出しに来るくらいだったから。ただコロナが始まる前におばあちゃんが亡くなってから父も元気をなくしていったという。股関節が弱く、手術をおこない、回復したが、コロナが流行りだして一人で過ごすことが増えて、アルコールが手放せなくなってしまったそうだった。もともとお酒強くなかったのに。

一度は依存から抜け出す施設に入らないといけないとお医者さんへ言われたが、リハビリをしてなんとか大丈夫そうだねとなった矢先に、自宅で倒れた。発見が遅れ、搬送され一時はもちこたえて回復傾向だったのに、深夜急に息をひきとったらしい。倒れてからわずか、ふたつきほどで亡くなったという。最終的な診断は肺炎だった。


ただ最後は妹のおばさんに看取られて、ほんのすこし良かったなって。最後のさいごは一人じゃなかったんだねって。

このときボケもかなり進んでいて(介護認定5)よくあることらしいんだけど時間軸が『今』ではなくなってて会話がかみ合わなくなっていて
あるときおばさんが「家の中のものを片付けに入っていいかな?」ときくと

「〇〇(母の名前)がおるじゃろうけぇ、勝手に入ったら怒られるじゃろう」

たぶん、ぼくが小学生くらいのころだったのかな。

過去のいちばん幸せだったころの記憶になってしまっていたんじゃないかなっておばさんが言ってた。


はなしを聞いて分かったことは誰かに頼ることが苦手で、なんでも自分でやろうとして、強くあろうと生きた人。人とにぎやかに過ごすことが好きで、お金に縁がなくて。アルコールに負けて、しわしわになって亡くなってしまったみたいで、なにやってんだとも、がんばれよとも、誰にも言われずに旅立っていった。

汗だくになって車に乗り込んできた。妻と子どもたちは外の遊具で遊んで待っていたらしい。遅くなってごめんと謝りながらお昼ご飯をどこで食べようか考える。
「面白かったよ、博物館」


休みの日は、家にいなかった父も僕がいきたいというと必ずつれていってくれてた。建物のなかにはマスコットキャラクターがクイズを出してくれたりスタンプラリーを集めたりして走り回って。
過去に想いを馳せるのも楽しかったし恐竜がカッコよかった。肉食よりも草食が好きだ。自分から攻撃しないところ、守るために戦うところとか。



なんかこんだけ書いてても涙も出ないけどさ

やっぱりさ
もっとはやくまわりの人に頼ってほしかったわ。

かっこつけなくていいからさ、かっこわるくていいからさ
もうちょっと生きててほしかったよ。
はやいわ。ちゃんと会って、言いたかったし何はなしてくれるかわかんないけど聞きたかった、あなたの言葉を。

もうちょっと苦しまずに家族とか知り合いとかともだちとか、できればいろんな人に囲まれて死んでいってほしかったよ。
やさしいひとだったから。

お別れの仕方がわかんないじゃんよ

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