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コミュニティとその変遷(その1)

コミュニティとは、一区切りの生活圏域を共有し、生活文化や価値観の同質性、利害関係の同一性を有する集団です。その集団への帰属意識や相互扶助の精神を有することも特徴となります。

身体を持つ「人」は、移動や情報取得に距離の制約を受けることから、身体を中心とした同心円状の生活圏域に暮らしています。すなわち私たちは、「家族」「自治会」「小学校区」「市町村」「都道府県」「国家」といったコミュニティの衣を幾重にも纏った存在なのです。(下図)
※  この階層のそれぞれが地域コミュニティで、私たちが空間計画を策定しようとするとき、エリア開発を構想するとき、こうしたコミュニティの階層から、対象とする「地域」を具体的に選定することになります。

コミュニティ変遷図1

地域コミュニティの圏域は、地勢、交通、資源、産業などを与件として、歴史的、文化的に設定されてきました。特に地勢の影響は大きく、山陵や河川、海浜は結界となり、圏域を固定化する役割を果たしてきました。山陵による結界とは、見方を変えると水系による区分でもあります。幾重にも分岐する水系に従って、地域コミュティの圏域がフラクタルに構成されてきたのです。「地縁」という言葉も以上のことを表現しています。

こうして地域コミュニティは、自治会、小学校区、市町村…...といった「面」の輪郭を持つのですが、この「面」のなかの「点」や「線」の施設が象徴性を帯びることで、その地域コミュニティの紐帯は強化されます。
例えば、自治会における地区公園、小学校区にとっての小学校、市町村にとっての音楽ホールや駅前のシンボルロード、都道府県にとっての博物館や広域公園、国家にとってのスタジアムなど、構成員が同じ「場」に集まることで、地域コミュニティの紐帯は結ばれます。かつて、井戸という共有空間が、井戸端会議という地域コミュニティの装置であったことを思い起こすと分かりやすいでしょう。
* リモートな手法で集まることがコミュニティの紐帯とどう関係するかについては、今後の研究が必要かと思います。

しかし、日本人は、井戸のほかにも、縁側、茶の間、銭湯、自宅での結婚式や葬式、夏まつり、氏神さまといった共有空間を、煩わしい檻として捨ててきたのではないでしょうか。私たちは地域コミュニティの紐帯を確認する「場」を捨ててきたのです。すなわち、地域コミュニティを捨ててきたのです。

以下に、その経緯を概観してみましょう。

農耕社会をベースとして醸成された地域コミュニティが、明治維新後の都市化と中央集権化に伴って解体されていきました。(下図)

コミュニティ変遷図のコピー

身近なコミュニティとは遠く離れたところ(都市)に、工場や企業が立地し、人々はそこに通勤したり、あるいは引越して勤務するようになりました。交通手段の発達(移動制約の克服)がそのことに貢献しました。地方の従前の地域コミュニティは空洞化し、輪郭が希薄になっていきました。
* テンニースの「ゲマインシャフト からゲゼルシャフトへ」という言説は、ひとつの閉じられた社会の変質ではなく、空間的な移動を伴った社会構造の変化だったのです。

移動先の都市部では、新たな地域コミュニティは形成されませんでした(マンションの隣人は知らない人)。一方で、工場や企業などにおいて、昼間に空間を共有する構成員が、疑似的な地域コミュニティを形成するようになりました(会社で花見や運動会をする)。
* 日本社会で進展したゲゼルシャフトは「家族型の企業共同体」でした。

特に戦後は、どのような地域にも隈無く戦後復興の恩恵が行き渡るよう、権限を中央政府に集中させる体制整備が進みましたから、コミュニティ階層は「個人」と「国家」の二極に収斂されるようになり、中間的なコミュニティ階層は解体されていったのです。

そして、さらに近年では、グローバル化の進展により、国家コミュニティの輪郭も希薄になりつつあります。(下図)

コミュニティ変遷図

これは、経済面の空間支配が政治面の空間支配と拮抗するようになったことを意味しています。企業や資本(経済的レイヤー)は、政府(政治的レイヤー)の意志とは無関係に国家間を流動するようになりました。これに伴って、工場や企業という「場」に付随していた擬似的コミュニティも失われていきました。

以上が、現在までの消息です。

では、このグローバル化をこのまま推し進めていけば、どのような世界が実現するのか、想像を巡らせてみましょう。(下図)

コミュニティ変遷図5

全てのコミュニティ階層が消滅し、市場原理に基づく競争社会として世界は均質化しています。空間は画一化し、どこの町にも同じような建物と店舗が並んでいます。人々は同じような服を着て、同じようなものを食べ、同じような住宅に住み、同じような情報に満たされ、同じように考え、同じように孤独と幸福を味わっています。
経済機能が高度に集積したいくつかの世界都市(Global City)が、この世界を牽引しています。

こうして、もはや、私たちは一粒の裸の個人となって、幽かにSNSに繋がれながら、グローバルの大海に浮かぶ泡沫(うたかた)となるのです。

(次回は、このようなグローバル世界のオルタナティブについて考えます。)


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