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夜明けの孤独

歳をとると体力が落ちるのは自明である、そのことは分かっていた。急にガクッと来るのだと、しばしば人から聞いたものだ。ふむ、そんなものかと受け流していたのだが、先日、その「ガクッと」が来た。
その日、気が付いたと言うべきか。宝塚駅のホームに降り立ち、歩いていて、他の乗客に置いていかれていることに気づいたのである。

朝も早くから目が醒める。朝食は摂らない。
暗いうちから、準備書面や証拠証明書に目を通す、テープ起こしをする、過去の判例を読む。昼が近づくと出かけて食事をする。
闘いに大義があるとしても、自分はいったい何をしてきたのか、いったい何をしようとしているのか、書面に向かいながらふと考える。勝訴であれ、敗訴であれ、それが意味をなし、その価値をこの社会にふわりと落とすことができるのか。

『 夜明けに家を出て 過去なんか捨てたけど 自分のその足音が 追いかけてくるんだ 』 秋元康「夜明けの孤独」

散歩をする。昼寝はする。する日もある。
裁判だけではなく、林業再生や重要文化財活用の仕事をする日もある。その日の午前は、どれかに決めて仕事をする。午後と夜は自由に暮らし、働く。人生の抑揚が失せて、却って仕事は捗っているのかも知れない。

意外なことに、その衰えを自分が自然に受け止めている。クリエイティブ・エイジング......エイジングをポジティブに受け止めている。

先日、市長派の観光協会長に呼ばれて「姑息だ」と言われた。
開発地に隣接した住民が反対していることが分かったので、6名について、それぞれ意見書を証拠として裁判所に提出した。そのうちひとりは原告に名を連ねることになった(その後も反対意見書は増えていて、追って証拠提出することになる)。昨年秋に提訴した時、私には分かっていなかったのだけれど、驚いたことに、市も事業者も近隣住民に必要な説明を行なっていなかったのである。近隣住民の要望も無視していたのである。

それが、被告側から見ると「そんな姑息なことまでして、」となる。どの辺りが姑息なのか理解に苦しむが、近隣の住民に説明もなく開発を進める市役所は、姑息以前に行政として怠慢である。行政でありながら法令に違反している。

観光協会長は、だから、「対抗手段として、」城下町内の自治会で開発賛成の署名を集めることにしたのだとの説明であった。そして、市長は、裁判の証拠とするための開発賛成署名の集約を自治会長会の会長に依頼している。
同調圧力が強い地域で、自治会長会を通じて賛成署名を集めることにどのような意味があるのか、それに応じる自治会長会は自律的な組織として機能しているのか、それらの行為は姑息ではないのか、民主的ガバナンスが根付かない自治体に未来はあるのかなどなど、日々、落胆は尽きない。

『 生きるとは孤独になること 愛に甘えるな 群れの中 守られていても 本当の道は絶対 見つからない 』 同

歳を取ることのメリットはいくつかあって、上のような事態に直面して、私のような戦闘的な常識派でも、怒りに苛まれるということがない。
ただ、苦く、笑いたくなるだけである。そして、裁判のための書面に向かう。そのようにして、私は、闘いの日々を送っている。自分はいったい何をしてきたのか、いったい何をしようとしているのか。



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