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(84) 紀子 ー マドンナ・リリー

風を送るふいごに、今まで静かだった炭が突然大きなうなりを立てたかと思うと、炎が一気に炉から立ち上がった。火の粉が不規則ではあるが花火のように舞って、薄暗かった工房を急にパッと明るくした。炉の脇に座ったまま、じっと炎を見つめている金造の目は厳しい。ふいごは、ヒュウ、ヒュウと音を立て、それを操る金造の手は一時も休むことがない。紀子は、その光景に圧倒されたまま、身動きすら出来ずに、ずっと金造を見つめ続けた。五時間後に、炉から取り出されるはずのものを、両者がじっと待つ緊張の時間が流れた。

突然の社長の入院がなければ、紀子はこの諏訪まで来ることはなかった。というのも、日本刀の収集家でもある社長の代理として、注文の刀の火入れから一部始終を見て来てくれとの依頼を受けて、紀子は出張として諏訪まで来たのであった。紀子の勤める会社は、医療機器の総合商社としては、中堅の比較的新しい会社であった。紀子は、得意の英会話の力を見込まれての入社であり、社長秘書としてもなかなかのものと社内外での評価を受けていた。日頃病気を知らない社長だけに、長期入院を強いられるだろう肝炎だと医師から告げられ、相当の衝撃を受けている様子であった。この刀剣舎の訪問を何よりも楽しみにしていただけに、社長の落胆ぶりを見るのが秘書として辛いものがあった。絶対安静の病床にあっても鉄へのロマンの血が騒ぐのであろう、
「紀子君、私のわがままだが、秘書の君に私事で申し訳ないが、私に代わって例の刀剣の火入れの一部始終を見届けてはくれないか・・・本当にすまない」
と、深々と頭を下げたのだった。
紀子は、社長の依頼ということで承諾したわけではなく、強い鉄へのこだわりということに興味を持ったのであった。

金造の刀剣舎は、古代のままの製鉄法で鉄を生み出している。欠かすことが出来ない炭も自ら焼き、製鉄炉は粘土にワラを短く切ったものを混ぜて造ったものであった。紀子は、刀剣舎の随所に金造の鉄に対する情熱を感じ取っていた。炉の炎の一点を見つめた金造の気迫、張りつめた緊張感、飛び散る火の粉に圧倒された紀子は、工房の中に立っていられなかった。一部始終を見届けてくれ、と、社長の言葉であったが、紀子はトタンで出来た簡素なドアを押して外へ出た。五月のまばゆいばかりの陽は、紀子をしばらくの間、眩惑させた。勝手ではあったが、紀子は工房の辺りを散歩でもしようと思った。工房の周りには、金造が丹精込めて育てているのだろうと思われる数種類の花々が咲いていた。茶畑もあり、野菜も育っていた。その横には、小さな小屋があり炭の材料であろうか、切り揃えられた木が積み上げられてあった。何でもない、ごく普通の田舎の光景であったが、どこをとっても金造の深いこだわりと愛情が紀子にまで伝わってくる気がした。紀子は、何だか無性に恋しい気持ちになるのだった。何に、どうしてと言われても困るのだが、そんな気がするのだった。

先程、金造の弟子と紹介された青年が、
「あのう、先生が住宅の方でお休みくださいとのことです。どうぞこちらへ・・・」
と、紀子に声を掛けた。
突然の声に少し驚いた様子で、
「は、はい」
と、紀子は応えた。
「番茶ですが、庭で先生が育てられたものです。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
青年は不器用な手つきでお茶を差し出しながら、そう言った。
「どうぞ、お気を遣わないでください。私、勝手に休ませていただきますから・・・。初めて拝見しましたけど、大変なお仕事ですね。凄い緊張感だと感じました・・・」
紀子は、何をどう言えば良いのかわからないまま、そう言った。青年は困った様子で、
「そうですか。僕も初めての時そう感じました。弟子入りして八年になりますが、年を経るごとに正直いって後悔の気持ちが・・・」
「そうでしょうね。わかる気がします」
紀子がそう言うと、青年はほっとしたのか、少し顔が和らいで見えた。
「先生の製法は、古代のままのものなんです。何でハイテクの時代にそんな製法にこだわるのかと皆さん思われるでしょうし、ごく少量生産しか出来ないのを不合理と思われるでしょうね。それだけではありません。この製法で出来る鉄は、極めて性質が不均一なんです。普通で考えたら、均一な鉄の方が良いのに・・・と、思われるでしょうね。僕も最初、そのことが大きな疑問でした。手間のかかる、不合理な方法で何故不均一な鉄を造るのか、と・・・。これが実は、何度も何度も折り返して打ち延ばすと、日本刀に最も適した性質が生まれるのだと教わりました。その性質とは、折れにくく曲がりにくいという理想のものなんです。そのことを教わってから、余計にこの道を選んだことを後悔しました。鉄を鍛錬する技法が、それほど深く神業に近いものが要求されるはずですから・・・」
一気に、それでいてひと言ひと言を噛みしめ確認するかのように話した。
紀子は、その青年の話に引き込まれた。深く遠くを見つめる青年の目は、一切の束縛から解き放たれた本物を感じさせるものだと、紀子はそう思った。
「それで後悔を・・・」
紀子は、聞いてはいけないことを聞く時の遠慮がちな小声で尋ねてみた。青年は、気持ちを整えようとしたのだろうか、その目を庭先に移し、しばらく間を置いて話し始めた。
「先程、後悔という言葉を使いましたが、微妙な所なんです。しまったという意味では決してありません。もしそうなら、八年も先生にお世話になることはないと思います。上手く言えませんが、美術刀剣への憧れだけで、この仕事には就けないと思ったわけです。もっと深い所で、鉄に対しての姿勢が問われることに、怖さを感じましたし、今もそうなんです。やっぱり上手く言えません」
青年は、もどかしさからだろう拳で膝を数回叩いた。その真摯な態度に、紀子は深く共感し、
「お茶のお代わりいただけませんか」
精一杯のフォローをした。
青年の目は、急に柔らかさを取り戻し、
「はい、気がつきませんでした・・・」
と、席を立った。

車窓から新緑を楽しみながら、紀子は刀剣舎で味わったことなどを、考えるともなく思い出していた。あえて不均一な鉄を、一見能率の上がらないだろう古代製法で造りだそうとしている二人の職人に出会い、紀子は大きな衝撃を受けた。そればかりか、何か忘れてしまっていた重大なことに気づき始めていることも、同時に実感していた。これらが、ひとつの糸に繋がらないもどかしさを紀子は感じながら、少し重い気分であった。
「そうだ、新宿に着いたら、報告を兼ねて社長のお見舞いに行ってみるとするか」
そんな独り言をつぶやくと、いくらか気分が軽くなったのか、紀子は都心に近づく車窓の見慣れた風景に見入っていた。
「カサブランカは華麗でいいものだ。香りもこの上ないよ、と、主張している。だけどね、私は原種の白ゆり、マドンナ・リリーが好きだよ」
ある朝、何気ない時に社長がそう独り言をつぶやいたのを、紀子は思い出していた。


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