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禅語の前後:祖仏共殺(そふつ ともに ころす)

 僕の四国の実家には、居間の仏壇のなかに大柄な回出くりだし位牌があって、戒名や没年を書いた小さな木札が二十枚くらい収まっている。いちど調べてみたら、いちばん古い年の木札は天正六年となっていた。これは戦国時代、利休さんと同年代になる。我らがご先祖さまは、そのころに四国の山奥にまで落ちのびてきたようだ。
 朝夕まいにち、子椀ふたつの御飯と、湯呑ひとつの茶とをお供えする。誰かから土産にお菓子などをもらったら、まずはとりあえず箱ごと仏壇のごせんさんにあげる。ばあちゃんは毎朝、般若心経をひととおり仏壇に向かって唱えている。
 たぶん、これらは、ばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんのころから、えんえんと続いてきた風習なのだろう。

 そういう家で育った僕にとっては、千利休の辞世の言葉にある「ご先祖さまも仏さまも殺してしまう」というパワーワードのインパクトは、ありえないほど強いものに感じた。

人生じん せい 七十なな じゅう  りき  い  き とつ 
わが この 宝剣ほう けん    そ ふつ ともにころす

千利休 遺偈ゆいげ

 禅僧にとってのというのは、ほんらい言葉にはできないはずの禅の境地を、弟子たちに伝えるために愛情こめて無理やりに言葉にしたもの、らしい。死の直前に書いた遺偈ゆいげとなると、もうこれは本当の最期にあたって弟子たちや後世に向けてのこす言葉、遺言である。
 利休さんの遺偈は(禅の言葉というのは大抵そうだけど)ちょっとみただけでは意味が分からない。

 人生七十。これは分かりやすい。千利休は享年七十歳。
 力㘞希咄。これは掛け声らしい。えいやぁとぉ、くらいの意味合い。
 吾這宝剣。利休さんの持つ何かを、剣に例えている?
 祖仏共殺。ご先祖さまも仏さまも殺してしまう、とは?

 順に読み解いてみる。

 まず「宝剣」について。
 容赦なく迷いを断ち切る知恵のはたらきを指して「宝剣」と呼ぶのは、禅宗の通例らしい。

 文殊の知恵を、一切の迷妄をズバリと切断するその鋭利さに着目して、古来、金剛王宝剣・般若はんにゃの智剣・吹毛すいもうの剣などと称しているのである。ここにいう「宝剣」とはまさにその金剛王宝剣のことで、文殊の知恵のたとえにほかならない。

芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」より「宝剣在手裏」
(引用に際し常用仮名遣いに一部変更)

 つづいて「祖仏共殺」について。
 ご先祖さまも仏さまも殺してしまいなさい、という、はちゃめちゃに物騒な教えは、古くからある禅宗の教えに出てくる。

 逢仏殺仏、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不与物拘、透脱自在。
(仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親眷に逢えば親眷を殺して、始めて解脱を得ん、物とかかわらず、透脱すること自在ならん。)

臨済録 示衆
(解説文を含め、Wikidharmaより転記)

 真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないと臨済はいう。

臨済宗 黄壁禅 公式サイト 臨黄ネット
「逢仏殺仏 逢祖殺祖」

 利休の時代の「ご祖先さま」や「仏さま」は、いまの僕以上に大切にされていたものだろうと思う。それをバッサリ殺してしまう、という言葉のインパクトは、当時にしてみたら、きっと僕が感じている以上のものがあるんだろう。
 そう思いながら遺偈を読むと、「利休の劇的な死にふさわしい、気迫のこもった辞世」(村井康彦)とか「秀吉の暴力的征服に対する最後の翻身の気合」(芳賀幸四郎)とかいった評価よりはむしろ、人生の終局段階で得た静かな心持ちを、切々と語る言葉のようにも、感じられる。

 自分まで連綿と続いてきたご先祖さまも、浄土から自分を迎えにきてくれるはずの仏さまも、すべて殺してしまったら、あとに残るのは、ただ今を生きる自分自身だけになるだろう。
「七十年を生きてようやく、わたしはわたし自身になることができた」、利休が静かに力強くそう語っているように、僕には思える。