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禅語の前後:放下着(ほうげじゃく)

 村上春樹の短編にこんな一節がある。「夢みたいにぴったりとくる万年筆を作ってくれる」という店に行ってみた。店主に服を脱げと言われる。シャツを脱ぎ、ズボンを脱ごうとしたところで、いや上だけでいい、と止められる。店主は客ひとりひとりに対して、シャツを脱いだ本人の背中に手を当てて背骨のかたちを確かめてから、それにあった万年筆を作るのだ、という。

 三か月後、万年筆はできあがってきた。夢のように体にぴたりと馴染なじむ万年筆だった。しかしもちろん、それで夢のような文章が書けるというわけじゃない。
 夢のように体に馴染む文章を売ってくれる店では、僕はズボンを脱いだところで間に合わないかもしれない。

村上春樹「万年筆」(収録:「象工場のハッピーエンド」)

 ところで、ほうじゃくという禅語には、べつに「ズボンを脱げ」というような意味はない。
 ここで出てくる「じゃく」には「着ているもの」という意味合いはなく、「着」の一文字が命令形の助詞なので、単純に日本語にすれば「捨てなさい」くらいの意味合いになるらしい。

 禅僧趙州ちょうしゅうの有名なエピソードがある。趙州のもとに若い僧がやってきて、「私は全てのものを捨て去りました、これ以上どのように修行すればよいでしょうか」と(たぶん自慢げに)問いかけた。趙州の回答はひとこと、「放下着」。

「おぬしのかついでいる“おれは無一物だ”という意識・自惚うぬぼれを捨ててしまえ、そうすれば始めて真の無一物の境涯に到れるであろう」。という実に適切で親切な指示である。

芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」

 この「親切な指示」も、その若い僧には通じなかった。(まぁふつうに考えても、言葉足らずだよね…。)「これ以上もう捨てるものはございません」としつこく言い張る若い僧に、趙州は更に言う、「わかったよ、じゃあ、もういいから、きみはその『捨てるものがない』を背負って行きなさい」。

 若い僧を笑うことは、僕にはできない。色んなものを捨てて、なにがしかの境地に達したつもりでいても、それでもなにかしらの捨てられてないものが残っている、そういうものだと思う。
 別に、それでもいいのかもしれない。こちらは禅僧になるつもりはないのだから、そういう先の先にある境地がこの世界にはあるらしいと、ぼんやり眺めるくらいで、ちょうどいいのかもしれない。禅僧になるつもりならきっと、ズボンを脱いで下着をおろしたって、まだ足りないんだろうし。