映画「すずめの戸締まり」を観てきた話

縁があって何度か、津波の後片付けのお手伝いをしたことがある。2011年の秋から、2012年の夏ごろまで。
いろんな景色を見て、いろんな話を聞いた。

この家をきれいにしてまた住みたい、けど一階が津波で無茶苦茶になってしまった、あの日以来うちの子が怖がって家に帰ろうとしない、だから、もうピカピカにきれいにして、家族でまたこの家に帰りたい。
家主さんの話を聞いて、みんな総出でスコップとかほうきとかブラシとかてみとか台車とか高圧洗浄機ケルヒャーとか、防刃手袋つけた両手だとかで、泥や瓦礫を片付けて大事そうなものは丁寧に選り分けて、もう、ぴっかぴっかにしてやった。
家主さんは晴やかに礼を言ってくれたけど、僕はどうにも、くやしい気分が失せなかった。そのあたりは集落まるごと同じような状況で、家によってはあの日の惨状のままだったり或いは家ごと流されてしまってたりで、町じゅうのあちこちにまだ瓦礫が山と積まれていて、それはどの山も大人の背丈よりも高いくらいのもので、この家主さんの小さなお子さんは本当にここに怖がらずに帰ってこれるものだろうかと、どうしても思ってしまったからだ。
僕たちがそこで感じていた気持ちは、人それぞれに色々あったけれど、そこには確かに怒りがあった。

映画「パシフィック・リム」に、僕の大好きな台詞がある。

自然の猛威と戦う事は出来ない。
ハリケーンが向かって来たら逃げなければならない。
だがイエーガーに乗っている時は
ハリケーンと戦う事も出来るし、勝つ事も出来る。

「パシフィック・リム」

太平洋の端パシフィック・リムからあふれ出してくる巨大怪獣たちに巨大ロボで立ち向かうという馬鹿な映画なのだけど、それら多種多様に凶悪な怪獣たちは疑いなく自然の猛威、自然災害の比喩メタファーであって、僕はロケットパンチで津波のやろうどもをぶっ飛ばすことができたらさぞかし爽快だろうなと、馬鹿な妄想をしながら映画を楽しんだ。(僕に付き合ってくれた妻は、映画館の隣の席で寝ていた。)

映画「君の名は。」を観たとき、映画それ自体はじゅうぶんに楽しんだし妻も寝ないで一緒に観てくれたのだけど、その映画のなかの彗星の墜落(これも自然災害のメタファーだ、集落すべて吹き飛ばして復興庁の仕事ができるほどの災害)への対応(不思議な力で過去にさかのぼって集落の皆を避難させる)について、僕は若干の不満をブログに書き残していた。

災害を「なかったこと」として扱ってしまうというのは、どうなのよ? という反感を、僕は自分の中で感じている。この作品自体が、危険な妄想なのではないか、と思う。失うことに対して正面から向き合うことを拒否しているのでないか、と。

私的な旬「君の名は。(新海誠、東宝) / 中の人などいない(NHK_PR1号)」

同じ監督の「すずめの戸締まり」を観て、あぁこの監督は、失うことに対して正面から向き合ったのだな、と思った。もちろん、娯楽映画のパッケージに載せて戯画化したかたちではあるけれど、そこには単純なポルノ的な自然災害の娯楽消費ではない、「被災者」と呼ばれる羽目になった当時の子どもと、その周りの大人との生き様があるように、僕には思えた。

「すずめの戸締まり」も、不思議な力で自然災害を回避する(日本各地の地震を未然に鎮めてまわる)という話なのだけど、そこには因果律の逆転による過去改変はない。過去にさかのぼる描写はあるけれど、それも過去の自分自身にキーアイテムを手渡すことにだけ使われる。現実世界と同じように、死者はいつまでも死者のままだ。

村上春樹の「かえるくん、東京を救う」からの引用だろう、異界から現れてなんの意志も持たずに暴れる不可視の異形「みみず」に対して、人の意志をもってそれを鎮める、異界に繋がる扉の戸締まりをする、祝詞を唱えて祈りをもって、もといた異界にお返しする。これは私的には和風「パシフィック・リム」、自然の猛威にお返しをする、痛快な娯楽活劇だった。
その娯楽活劇の主人公は、被災時4歳だった高校生で、そのような物語が破綻なく成立するほどの時間が、この現実世界でも流れたのだ。

僕たちが片付けをした家の家主さんとこの小さな子も、たぶんもう高校生くらいになってるんだろう。
その子の、そういう子たちの、またその周りの大人たちの多幸を、あらためて祈る。かしこみ、かしこみ、もうす。