なー

珈琲、ドリンクバーやめたってよ。

オレンジジュースが異変に気付いたのは、よく晴れた早朝だった。

「えっ…?」

信じられるはずもない。
何と言っても、あの珈琲だ。

都心のファミレス。その最奥部のドリンクバー。

気だるい朝帰り客と早起きのシニア層が混在するモーニング。
サラリーマンでごった返すランチ。
マダムと園児のおやつタイム。
そして…学生もファミリーも、あらゆる年代を受け入れる、ディナー…。

24時間、眠ることのないこの場所で、彼はずっと、キャプテンでエースで、スターだった。

「珈琲がいない、ドリンクバー…?」

残された者たちの戸惑いは、いつの時代も痛烈だ。

オレンジジュースは逡巡する。

右を向くと、まだ爆睡しているメロンソーダに、ホワイトウォーター。
微炭酸が挑発的な彼らは、コーラを中心によくまとまったダンスグループで、その若さを、体力を、いつでも持て余している。

新しい刺激に飢える若者たちは、オレンジジュースと親友のリンゴジュースに、しょっちゅう声をかけてきた。
ノリで混ざり合えば、新しい味になれるとかなんとか、テキトーなことを言いながら。

軽率でうっとおしいと思っていたが、今はあのチャラさが、欲しかった。

珈琲が、いない。
その衝撃的な現実を、いつものシュワシュワで、悪い冗談だったと、笑い飛ばして欲しかったのだ。

むらさき色の恋

自分の頭の上で、オレンジジュースがすすり泣いていることに、ブドウジュースはすぐ気が付いた。

(なによ、あんな、いかにも構ってほしそうな、バカな泣き方は。)

オレンジ、リンゴ、ブドウ。
果物ジュースの番付を表すように、縦に並んだ3人娘。
ブドウジュースは、ずっとオレンジジュースが嫌いだった。

まず、媚びたような色が嫌だ。
爽やかさを押し付けてくる、甘酸っぱい匂いも。

(人工物で作り上げただけのくせに、なんでお子様メニューの写真には、あの女ばっかり採用されんのよ。考えたやつ、ほんと、バカ。)

自分のブドウ風甘味料は棚に置き、ドリンクバー界のアイドル気分でいる娘に、激しく嫉妬を感じていた。

(気弱で言いなりのリンゴジュースも、バカみたい。これだから、ポリフェノールのないやつは。)

すんすんすん。オレンジジュースのしくしく泣きが、ブドウジュースの怒りを煽り、どす黒い色に深みが増す。

(ああしてれば、お調子者のコーラあたりに、慰めてもらえるとでも思ってるわけ?ああ、もう!どいつもこいつもバカ!朝は特別な時間だってのに!)

心が荒れたときは、いつも深く息を吸う。
スゥーーー。

(あれ?)

初めて感じる、違和感だった。
モーニングタイムの今なら、吸いこんだ香りが、一瞬で肺の隅々までも、埋めてくれるはずだった。
あの、深くて豊かな、珈琲スメルで…。

左に顔をむけたブドウジュースは、雷に打たれたように動けない。
なかった。そこにあるはずの、彼の城が。

赤と黒を基調にした、クールでメタリックなコーティング。
品と知性が体現された、芸術的なデザイン。
ドリンクバーの王者だけに許された、至極の住まい。

そびえたつエスプレッソマシーンが、もう、そこに、なかったのだ。

(うそでしょ…?なんで…?)

もうそこにない曲線美を、まざまざと思い出すことができた。
7種類ものドリンクが、所狭しと押し込まれた、ボタンだらけの安アパートから、毎朝、彼の姿を盗み見た。

立ちのぼるスチームミルクにうっとりしながら、珈琲の香りを抱きしめる瞬間だけが、さえない紫の容姿を、嫉妬っぽくヒステリーな性格を、「バカ」が口癖になってしまった、バカな自分を、まるっと忘れさせてくれた。

その珈琲が、いなかった。

オレンジジュースのすすき泣きは、もはやブドウジュースには届かない。
もっと激しく切実なものが、彼女の両目から、溢れだしていたからだ。

望んでいない、白羽の矢

10時をまわり、ランチ前のアイドルタイムにさしかかったころ、ドリンクバーのメンバーは、全員で膝を突き合わせていた。
巨大な城ごと消えてしまった、珈琲以外は、だが。

「あー、あれじゃね?これ詰んだっしょ?」

「な、珈琲いないとか、ゲームオーバーすぎてイミフ!」

不安と恐怖をかき消すように、メロンソーダとホワイトウォーターが軽口を言い合う。
いつものラップが飛び出さないのは、大きな動揺の表れだろう。

「わたし…ずっと…珈琲のこと…っ」

言葉につまるオレンジジュースの背中を、リンゴジュースが涙ぐんでさすっている。

ブドウジュースは何も言わない。
ただただ、エスプレッソマシーン跡の、周囲より白みの強いテーブルを眺めていた。

誰もが思い出していた。
珈琲の気品、頼もしさ、存在感、その圧倒的な、カリスマ性を。
彼なしに、ドリンクバーは語れない。

最近のお客たちには知恵がある。
珈琲が最も高原価な液体なのだと、知った上で嗜んでいる。

「…これは、危機じゃ。だがの、乗り越えられる、危機でもある。」

「じっちゃん…!」

年老いた烏龍茶が話しだすと、うつむいていたコーラの気泡が、ブクブク弾けて色めき立った。

「珈琲はいない。…もう帰らんじゃろ。そうゆう男じゃ。しかし案ずることはない、わしらには、もう一人、ホットを担える者がおる。」

サッーー。
烏龍茶しか話していなかった空間に、さらなる沈黙が訪れる。

次の瞬間、色味にまとまりのないドリンクたちが、みな一斉に、すがる視線を走らせる。
その方向には、棚があった。
同じような中身のつまった小ぶりな瓶が10個ほど、すきまなく寄り添い合って、震えていた。

ゴクリ、と唾をのみ、決意をこめて、コーラが言った。

「紅茶、おまえ、やれるのか…?」

ガタガタガタガタ。
紅茶は目を固く閉じて、膝に顔をうずめて怯えていた。

視界が真っ暗だ。
それは珈琲の漆黒と、そのまま同じ、色だった。

いつか、海にいくときは

幼い頃の珈琲と紅茶は、双子のように、いつも一緒だった。

炭酸飲料ともジュースともちがう、自分たちだけにしかない繋がりを、言葉にせずとも感じていた。

珈琲は昔から上昇志向で、彼の大きな未来の話を聞くのが、紅茶の楽しいひとときだった。
珈琲の言葉を思いだす。

「なあ、コーちゃん、俺は大人になったら、海に行ってみたいんだ。」

「海に?どうして?このままずっとドリンクバーでも、僕は十分楽しいよ。」

「そうかなあ~。ソーサーの小さなヘコみにおさまってると、なんだか落ち着かなくて、窮屈なんだ。」

「コーヒーは、ソーサーが嫌いなの?」

「嫌いじゃないさ。でも思う。このカップから飛び出して、広い海に飛び込んだら、世界はちがってみえるのかも…って。」

「なんだか怖いよ、僕はイヤだなあ。」

「ハハハ!もしもの、話だよ。大丈夫、もしも海にいくときは、俺ひとりで旅に出るよ。ドリンクバーには、コーちゃんが必要だからね。」

「イヤだよ!コーヒーも一緒にいてよ!」

このあと、珈琲がなんと答えたのかが思い出せない。
古い記憶を上書きするように、昨日の深夜、カフェインレスの連中が、全員寝静まった静寂の中、2人で話した会話ばかりが蘇る。

「俺をカタカナのコーヒーで呼ぶのは、もうお前だけだな。」

「…急になんだよ。コーヒーでも珈琲でも、キミの偉大さは変わらないよ。…僕のちっぽけさも、だけどね。」

「何が偉大なもんか。こんな小さな黒い水、海に飲まれたら、何者でもない。」

「海?ああ、子供の頃から、コーヒーは海が好きだったね。僕にはまぶしいよ。専用のエスプレッソマシーンも、カッコいいスチームもドリップ音も、すべてを手にしたキミが。」

「紅茶の方が、種類がある。」

「やめてくれよ!こんな…こんなのは、飾り気のないティーバッグを大量生産のガラス瓶に詰めて、ささいな味のちがいをカタカナまじりのネーミングでごまかしてる、くだらない、茶番、だよ…。」

「紅茶…。」

「僕はキミにはなれないよ。みんなが食後の楽しみに、ワクワク迎えにいくような存在じゃ、ないんだよ。ちょっとした気まぐれや、2杯目のコーヒーを躊躇するときの、二番煎じなのさ。摘みたてでも…ね。」

「…そうか。俺は、ジワジワ広がる茶色の渦と、楽しそうにポッピングする、お前の葉っぱが好きだった。好きだったぞ、コーちゃん。」

(え…?)

何も言い返せずにいるうちに、珈琲は眠りに落ちたようだった。
不意に噴出した劣等感にさいなまれながら、紅茶は一夜をすごした。

そして朝になり、泣きじゃくるオレンジジュースや、騒ぎ立てるコーラたちをみたとき、血の気もステインも、一気に引いて温度が下がる。

紅茶にはわかっていた。
珈琲は、海に旅立ったのだ。たった一人で。

もう純粋だったストレートティー時代には戻れない、「コーちゃん」ではなくなってしまった、小細工だらけの、哀れな幼馴染を、ここに残して。

あのね、ほんとはね。

紅茶は、自分の姿が情けなかった。
珈琲のように、ドシリと構えたマシーンから、エンターテインメント性のある、誇り高い液体を出したかった。

小分けに瓶に閉じ込められ、まとめてセット陳列されないと、サマにならない自分は、どのドリンクよりも劣ってみえた。

やいのやいのと言いながらも、混ざり合ってお客を楽しませるジュースと若い炭酸たちに、時代の流れを感じもした。

(みんな珈琲やソフトドリンクが飲みたいんだ。棚に追いやられた、乾いた葉っぱなんかじゃなく。)

腐っていた。
目立たないようにひっそりと、地味に暮らしていたというのに、珈琲が去ったいま、急に集まった注目に、どうしていいかわからない。

「紅茶、おまえ、やれるのか。」

さっきよりもハッキリとした口調で、コーラが二度目の問いを投げかける。

「や、やれるわけないだろ!珈琲の代わりなんていない!もう終わりだ!ドリンクバーは!!」

リンゴジュースが息をのむ。
それぞれの水面に、落胆の色が浮かんでいる。

震えが止まらない。
こんなに他のドリンクに見つめられたのは、はじめてかもしれない。
子供の頃から、隣には、ずっと珈琲がいたからだ。

そのとき、気まずい沈黙を、渋みを含んだ甘い声がさえぎった。

「できるよ、あんたなら。珈琲もきっと、そう、言うよ。」

ブドウジュースが、まっすぐこちらを見つめている。
こんなにも静かな涙を、紅茶は見たことがなかった。

たっぷりと間をとって、こぼれ落ちた大きな一滴は、冷え切った紅茶の表面に、きれいな波紋を広げていった。

自分の殻に閉じこもり、頑なに瓶の中に閉じこもっていたのは、何故だったのか。

ほかのドリンクとは交われないと、決めつけていたのは、誰だったのか。

珈琲にはなれない。
だって僕は紅茶じゃないか。

フルーツティーにも、和紅茶にもなれる、みんなと手を取り合える、紅茶じゃないか。

たった1人で孤城に住み、賞賛の代わりに親しみを失くし、寄り添えるフレーバーすらもたなかった彼の方が、ずっと孤独だったのだ。
海に溶けてしまいたいほどに。

そんなことに、今さら気づいても遅すぎる。

本当は、あの日伝えてみたかった。
自分も海に行きたいと。

押しては返す波に乗り、限界までこされてみたい。
まだイケるのに、お客のタイミングでソーサーに出されるのは、もうイヤなんだと。

言えなかった自分の代わりに、珈琲は旅立ったのだ。
ここにいたことなど、忘れさせる潔さで。

紅茶の中で、葉が熟す。
引き立ての珈琲豆にも負けないような、香り高さだ。

「僕、やるよ。ホットは僕に、任せてよ。」

キリッとした喉越しを予感させる、引き締まった声に、ドリンクたちも顔を上げる。

ランチがはじまる。
席はあっという間にうまるだろう。
喉が渇いたお客たちで。

もう誰も、エスプレッソマシーンの撤去跡を、みつめてなど、いなかった。

記:瀧波 和賀

#紅茶のある風景 #小説 #創作




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