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マームとジプシー「cocoon」を観た

この作品について、正直まだ消化しきれていない部分がある。観た直後からその日寝付く前まで、頭の中はぐわんぐわんとしていた。起きたらちょっぴり治っていたが、これを書いている今でも2時間半の世界が私を揺さぶる。
それでも、記憶がまだはっきりしているうちに感想を書きたかった。

北九州芸術劇場からは小倉城が見える

作品の概要と、マームとジプシーについてはこちらから。
mum-cocoon.com

マンガ版について

マンガ「cocoon」は以前読んだことがあった。作者・今日マチ子先生はその可愛らしく瑞々しいタッチでバチバチに残酷なシーンを描く作家さんだと認識している。いわゆる「ガラスの十代」をテーマにして描かせたら右に出る者はいないと思う。

「cocoon」は第二次世界大戦末期、戦場となった沖縄を舞台に描かれる少女たちの物語だ。戦場、沖縄、少女。この3つの単語だけで、私たちは「ひめゆり学徒隊」とか、「ガマ」とか、「集団自決」とかいったような言葉を連想し、筆舌に尽くしがたい悲惨な光景を頭に浮かべる。
そんなシーンは、作中に何度も何度も出てくる。柔らかな、それでいて刺さるようなコントラストをもった表現で、目を覆いたくなるようなシーンが続いていく。
それでも、物語の中の少女たちはみんな「いわゆる普通の女の子」なのだ。クラスメイトとおしゃべりをして、可愛いものに目を輝かせて、ついつい身だしなみが気になっちゃって、ちょっとかっこいい転校生にキャーキャー騒いじゃう。
10年以上前の私がそうであったように、そして今の子たちがそうであるように、彼女たちは「いわゆる普通の女の子」。何等かの抵抗できない力によって、「日常」から「戦禍」に引き込まれてしまったことを除いては。

舞台版について

舞台版「cocoon」は、そんな彼女たちの姿が―生きて、死ぬまでの姿が、マンガとはまた異なる、舞台ならでは演出で表現されていた。
この舞台では、場面(モノローグから学校生活、戦地;ガマの救護エリア、ガマからの逃げ道、そして海岸、エピローグ)がクロスカット的に切り替わる。そのたびに舞台装置も照明も音効も大きく様子を変えた。
学校では抽象的な舞台装置(木枠で窓や廊下と教室の境界を表現する、ゴム紐で廊下を表現したかと思えばそれで大縄跳びをしだす、など)が目まぐるしく動く中でポンポンと音がなる。それが戦地になると突如大きな時計や担架などがゆっくりと運び込まれ、照明や音効が激しく物々しくうねり出す。「日常」の終わりと「戦禍」の始まりが、残酷に切り開かれる。

そしてこの作品の大きな特徴として、「リフレイン」という手法がとられていることがある。同じシーン(セリフとか振る舞いとか)が2時間半の間に何度か繰り返される。単純に繰り返されているように見えることもあるが、言葉のとおり「切り」替わる場面上に重なることで、意味合いはがらりと変わった。
「記憶なんて不確かなものだよ」「日記、まだ書いてるの」「長い廊下を、歩いていく」「ねえ、あの影何だろう、鳥?」「私たちは、雪のように白い繭に守られている」そんな言葉が場面ごとに色を変えて積み重なっていく。ちなみに、「生きるよ!」という言葉をあれほどまでに強靭な、それでいて空虚で脆いつくりをした言葉として使う作品を、私は観たことがない。

切り分けられた舞台装置とリフレインで繰り返される言葉と仕草が重ねられ、並べられていくことで、それらが版画のように、いや版画の連作のようにつながることで、舞台の世界が、その世界にいる少女たちの姿が浮かびあがってくる。
一部異なる場面や登場人物の設定こそあったが、ストーリーの大きな流れと軸はマンガ版と一緒で、「日常」の中に「戦禍」の前触れが、「戦禍」の中に「日常」の残り香がいたのも共通していた。ただ、舞台版の方が上記の演出もあってか、その構造が顕著に出ていたと思う。
正直、「何故ここでこれを?」というような演出もたびたびあった。単純に恐ろしい体験をさせたいだけでは…というものもあった。生理的にダメな人は本当にダメであろう演出もあった(敢えてここでは書かない)。
それでも、演出家や原作者の、そして舞台に立つ役者さんたちの信念というか、執念のようなものはひしと伝わった。「これは単なる反戦作品じゃないんだぞ」という。

77年前の女の子たちへ、77年後の元女の子より

冒頭でも書いたとおり、登場人物たちは戦禍に散っていった「戦争犠牲者」だが、本質は「いわゆる普通の女の子」である。欲しい洋服を思い描いて、バレーボールに熱を入れて、歌って踊って、そして生きようとした。
冒頭には「誰も死にたくなんてなかった」と、終盤には「だから私は生きることにした」という言葉が出てくる。そこに彼女たちの思いが詰まっているのだと思う。そんな彼女たちに、私たちは安全な場所―椅子はフカフカで座り心地も良いし、エアコンはガンガンに効いているし、爆弾なんて降ってこない場所から「可哀そうに」「辛かったね」「苦しいよね」なんて言葉を安易にかけられるだろうか。
じゃあどう声をかけるのさと言われても、私はまだその答えを出しきれていない。高尚なことを考えようとしても、あの舞台を思い出すと思考が止まるのだ。だから、今ここではこんな陳腐な言葉しか紡げない。

「私もこっそりリップクリームを持ち歩いたり、授業が終わったら友だちとお茶しにいったりする女の子だった。あなたたちと同じ『いわゆる普通の女の子』だった。そこから私は生き残り、今も生きている。そしてこれからも生き延びていきます」


ポストカード、入れられている封筒も凝っている

人類の永遠のテーマであろう「戦争・平和」、そしてそれを超えた「生き方・死に方」について、前衛的な表現ながらも真正面から観客に問いかけてくる、なかなかに骨のある舞台だった。


今日マチ子先生の作品だと「みかこさん」も青々とした表現でえげつない青春物語が描かれているのでオススメです  芳田