カッコいい辞典「な」

「夏目漱石」

僕は本がすっきだ。

すっきとは好きの最上級の表現である。

そのすっきになったきっかけが何を隠そう夏目漱石なのである。

高校生の時分、漱石の作品の中でも一番有名な「こころ」を読破し、いたく感動した僕はそれが当然であるがごとく漱石を心酔した。

この酩酊がいまだ冷めやらぬことは言うまでもない。

その漱石の作品の一つに「三四郎」と言うものがある。

この先は軽くネタバレになるが、バレても面白いのが漱石の素晴らしいところなので問題はない。

興味が出た方はぜひ書店へ走ってほしい。

走って転んでほしい。将来いい思い出になるであろうと思う。

内容だが、新しく大学生になった主人公三四郎の青春小説と言えば大枠は外していないであろう。

その三四郎と言う作品がいたくすっきなのだ。

まず冒頭で地方から電車で上京してくる三四郎がボックス席で弁当を食っている描写があるのだが、三四郎の向いの座席に美しい女性が座っているのだ。

先まで高校生だった三四郎は美しい女性が気になり横目でチラチラ盗み見ながら弁当を平らげる。

そのあと三四郎がとった行動が驚きなのだが、

空になった弁当箱を窓の外に投げ捨てるのだ。

現代では考えられない所作であるが、往時の行動としてはあるあるなのであろう。漱石もそのことについては一言も加えずにストーリーは進んでゆくのだ。

しかも三四郎の投げた空の弁当箱は電車の勢いで向いの美しい女性の顔面にぶち当たるのだ。

何も言わずにハンケチで顔をぬぐう美しい女性。

謝ることもできない三四郎は何を思ったか、隣で寝ている老紳士の膝の上に乗った新聞をぶんどり、読み始めるのだ。

僕のすっきなシーンである。

これに影響を受けた僕はいつか彼女ができてピクニックに行った際、彼女の作ったサンドイッチを食べ終えた瞬間に、差し出されたお手拭きを彼女の顔面にぶん投げ、驚いた彼女の腕からスマホを奪い取り、彼女のスマホでヤフーニュースを音読してみたいと考えている。

おそらくやらない。

僕にも常識と愛情は携えているのである。

三四郎の話に戻ろう。

ヒロインの美禰子と河原の草っぱらに座って会話をするシーンがある。

そこで驚愕の出来事が起こる。

何の前触れもなく、老婆が通り過ぎるのだが、三四郎と美禰子をキッとにらむ描写がある。

小説と言うのは書いてある内容は筆者の伝えたいことの魂の叫びだと思う。内容すべてに意味が含まれ、その作品を面白く、崇高なものに仕上げている。

しかし、漱石の三四郎ではその老婆は後にも先にも一切出てこないのだ。

一体あのにらんだ老婆は何だったのだろう。

すっきなシーンである。

すっきすぎて、僕も河原に散歩しによく行くのだが、カップルを見つけた際はにらむようにしている。

漱石をやっているのだ。

カップルは不快であろうが、僕は漱石の描写の再現ができて、非常に高い満足感を得られる。

どうであろう。

三四郎を読みたくなったのではなかろうか、よしそうだとして漱石の文体は現代文学に比べ読みにくいのは確かだ。心してかかってほしい。

だが読後感は非常によい。

すっきになるであろう。


しかしこのすっきと言う言葉、あまりカッコよくないと今気が付いた。

だが消さない。

ありのままを出すのもカッコいいのだ。



ここまで読んで頂きありがとうございました。
また逢う日まで。

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