見出し画像

~あなたの体を動ける体に~

竹岡和宏の半生
~生い立ち、野球人生、そして現在~
※ラジオ出演で生い立ち~野球人生~現在の仕事について話しています。

私は、経営者のためのパフォーマンスアップコーチをしている竹岡和宏です
 
私が、経営者のパフォーマンスアップコーチをしている理由は、
あきらめなければ夢は叶うこと努力することの尊さを知っているからです
 
私は、プロ野球という舞台で戦ってきました。26歳で一流企業を飛び出し、身一つでアメリカに渡りプロのキャリアをスタートさせました。しかし思うような結果を出すことは容易ではありませんでした。
その中でわかったのが、「やり続ける限りチャンスはある」ということでした。己の体と向き合い、失敗してもそこから学び、より良い方向へ改善する努力を惜しみませんでした。
その結果、平均引退年齢28歳と言われる中で30歳時にドラフトされ、35歳まで現役を続けることができました。
引退後私は、それまでの経験を活かし、ストレッチ&トレーニングジムを立ち上げ運営し、たくさんの方の悩みや課題を解決するお手伝いをしていました。

そして今はそれらの経験を、経営者やビジネスマンに届けたいと思い、パフォーマンスアップコーチとして活動しています。

経営者は、ビジネスの成功を目指して常に最善の判断を下し、組織全体を運営するためにストレスやプレッシャーを受けています。しかし、ストレスや疲れが蓄積されると、判断力や集中力が低下し、ビジネスに悪影響を及ぼすことがあります。そのため、適切な睡眠、栄養、運動を取り入れてコンディションを整え、高いパフォーマンスを発揮することが求められるのです。

一方、プロ野球選手も、試合での高いパフォーマンスを発揮するには、身体能力や技術だけでなく、判断力や集中力も重要です。疲労や怪我によってパフォーマンスが低下することがないように、適切なトレーニングや身体のケアを行い、コンディションを整えることが求められます。

私はその両方を経験してきました。
「自分の身ひとつで命運が決まる」
「すべては自分次第」

経営者が元気になれば、会社も元気になります。
会社が元気になれば、日本も元気になります。
これからも、経営者とビジネスマンに寄り添いながら活動していきます。

  

パフォーマンスアップコーチ竹岡和宏
プロフィール

生誕~高校時代

 昭和50年1月25日滋賀県栗東市に生まれる。
小さいころから外で遊ぶのが大好きな少年だった。
小学3年から野球を始め、もちろん夢はプロ野球選手!憧れはミスタータイガース掛布雅之。


家族旅行でのワンショット

野球三昧の少年時代、中学に進学するものの9番サードがやっと。高校は家から近いという理由で地元の守山高校に進学。当初は野手で甲子園目指すも、同学年のピッチャーがいないという理由で監督から半強制的にやらされるも、半年以上拒否。いきなり実戦で投げさせられて大炎上!!ここで負けじ魂に火がついてピッチャーに没頭。甲子園だー!と息巻き、選抜甲子園を懸けた県大会準々決勝延長18回を一人で投げぬきしかもサヨナラヒットまで打つという超☆を持っていたが、あと一つ勝てば近畿大会出場という試合で無念のサヨナラ負け。夏の大会も3回戦敗退と甲子園には程遠い高校時代だった。

大学時代

春季キャンプat広島呉にて(中央本人)

その後漠然と「社会人まで野球をやって、そのあとはその会社で勤めて・・・」と考えていたので、恩師の薦めで近畿大学野球部のセレクションに参加。周りは甲子園常連校の猛者ばかり。「滋賀?守山?どこやねん?」と鼻で笑われる。それが悔しくて負けじ魂に火が付きセレクションではそいつら(今では生涯の友ですよ^^)を完璧にピシャリと抑えて、見事合格!!当時の監督は「デカいから獲っておこう」というぐらいだったらしい。(入学当時189cm 現在191cm)

入学直後、人生最大のカルチャーショックを受ける。
「レベルが違い過ぎる・・・」

滋賀の田舎でやっていた野球と、甲子園に出るような同世代の人たちの体力、技術、メンタル。すべてにおいて敵うことがなかった。「やれるのか!?」と思ったが、「負けたままで終わるのは絶対に嫌だ!滋賀から送り出してくれた家族、仲間に申し訳ない。絶対にやってやる」とここでも負けじ魂発揮。4年生リーグ戦では最優秀防御率獲得。引退式で監督から「一番伸びたのは、竹岡だな」と言われたことが嬉しくて、後輩からの賞状には「あなたは努力すれば必ず実るということを教えてくれました」という言葉がもらえたのは、その後の人生での指針にもなったと思っている。

社会人時代~トライアウト

在学時、先輩、同僚がプロの門をたたく中、「俺もやればできる」とプロ志望をもって社会人野球「日本IBM野洲」に進む。

IBM時代、気持ちとは裏腹に思うような結果が出ず、焦りもあり、さらに登板のチャンスも減っていき、2年3年と時間だけが過ぎていった。「このままではプロに行けない」。そう思った次の日に「退部してプロテストを受ける」という選択に出る。しかし当時のテストはすでに終了しており、一転して野球ができる環境がゼロになってしまうという最悪な状況に追い込まれた。再度部に復帰を懇願するも、監督から「自分勝手に辞めていった奴を戻すわけにはいかない」と断られ、「本当にこれで野球が終わってしまう・・・」と絶望の淵に立つ。家族の前で「これで野球をやめる。今までありがとう」という言葉を伝えたときは、人生で一番泣いた。両親、姉からの「ありがとう」にまた涙があふれ出た。「これからは社会人として、一人の大人として生きていこう」と再スタートを切った。

仕事に入り3か月。毎年の新年のあいさつに高校時代の恩師を訪ねたとき、私の気持ちを察したのか、「お前はまだ野球をやるべき。やりたくてもできない人がいる。お前にはまだ可能性がある。だからやるべきだ」と言葉を投げられ、自分の気持ちに正直になる。「やるなら今しかない」
つてをたどり、クラブチームを紹介していただいた。ありがたいことに社員だったことで、野球部の施設は使わせてもらえ、部員にも練習時間外で協力をしてもらい、今年こそは、ということで練習を再開、試合でも投げることで徐々に実践感覚も取り戻していった。
このときの「時間がない中でいかに工夫するか」「集中して練習することのメリット」など多くのことを学んだ。何よりも「一人では何も成しえない」ということを学べたのが一番大きかった。

日本のプロテストを受けようと思っていた矢先、知人の紹介でアメリカメジャーリーグ・アトランタブレーブスの国際スカウトから、「むこう(アメリカ)でやる気はないか?」と問われ、当時、まったく眼中になかった私は「ありません」と即座に断りを入れた。それから1週間。「今の自分は選り好みしている場合じゃない、のじゃないか?」と思い、「チャンスのあるところでチャンスを掴みにいく」という気持ちが湧き、テストを受けることに。一次は通過。1か月後に環太平洋スカウトのボスが見に来るところで投げて欲しいといわれる。

運命の一戦 VS松下電器戦(現Panasonic)


中山製鋼硬式野球クラブ時代


これが自分の運命を決める日、と腹をくくり臨んだ一戦。全力を尽くしたものの、7回10失点コールド負け。試合後、ボスとの食事の席が設けられた。「あぁ、大事な一戦であんなピッチングをしていては無理だよな、、、」と諦めていると、「10月に若手主体の教育リーグがフロリダで開催される。そこで投げてくれないか?」と意外な問いかけがあった。「俺みたいなのが、、、」と思う気持ちが大半を占めていたので、すぐに「はい」とは言えなかった。通用するのか?行くだけ無駄なんじゃないか?正直にその思いをぶつけてみた。「わたしは、むこう(アメリカ)で通用するか?」返ってきた答えは意外だった。

「我々を見てみろ。スーツを着ている。君はどうだ?何を着ている?そう、ユニフォームを着続ける限りチャンスはある」

出会ったことのない言葉に衝撃を受けた。YESでもNOでもない。日本で育った自分は、「やれるよ」とか「難しいかもしれないが、可能性はある」とか、そんな答えを想像していた。違った。それを決めるのは自分しかないのだ。このときの言葉は本当に一時も忘れたことはない。
その言葉に後押しされ、渡米を決意。所属していた上司に「2週間アメリカに行きます」ということを伝えると少し黙ったあと、「有給休暇で行くというのは君のためにはならないのでは?退路を断って行く方が君のためじゃないか」という言葉をくれた。涙が止まらなかった。覚悟ができていたと思っていたけれど、どこかでダメだったら戻ってくればいい、と思っていたのかもしれない。こうして私はアメリカに渡った。2000年10月24日。高橋尚子選手がシドニーオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したことを、私はひとり機内で知った。

アメリカの景色は、これまでの常識を覆してくれた。
こんな最高な場所で野球ができるのか。胸躍った。3週間のテストで合格を勝ち取ることができ、翌年のスプリング・トレーニングへの参加が認められ、正式に契約を交わした。

日米野球来日時の名将ボビー・コックス(当時)

アメリカ

担当スカウトからはこの言葉を一番言われてアメリカに渡った。「何か起きて当たり前。人も、言葉も、すべてが初めてのこと。いちいち心乱さないように」。野球をするうえで、生活するうえでこれほど心のよりどころにした言葉はなかった。
シーズンが始まると、3か月(約155日)で140試合。20連戦は当たり前。22時に試合が終わりそのままバス移動で16時間。着いて着替えて試合なんて生活。ハンバーガー、ピザ、ピーナッツトーストetc。いかに日本が恵まれているのか、肌で感じた。何かを食べなければならない状況で、選択肢が限られるという経験をした。トマトソースが苦手だったのが、帰国する頃には好物になっていた。環境が人を変えることを実感した。また、人間は生きている限り、どんな状況でもなんとかするもんだ、ということも学んだ。
「いつ呼ばれてもいいように、準備しておけよ」とマイナーリーグのマネジャーに言われていた矢先、昇格目前に肘を痛め、チャンスを逃してしまった。この時初めて、コンディショニングの重要性を実感し、より効果的なトレーニングやストレッチに重点を置くようなった。後々のことを考えると、あの時の怪我が無駄ではなかったと心から思っている。


AAA(トリプルエー)に昇格するも、3年目の6月に解雇
その後、独立リーグチームのセインツと契約たが、アメリカでの野球選手としての道を模索する中で、現実は厳しかったため、帰国することになった。アメリカでのプレーを続けたい気持ちがあったが、日本のプロ球団からも声がかかった。『3年前は見向きもしてくれなかったのに』という思いもあったが、受験。アメリカへの通過点と考えてたが、ホークスから合格通知を受けた。アメリカへの思いが強かったため断る選択肢もあったが、これまで与えられたチャンスでできることをやる、というのが自分のスタイルだと思い、日本でのチャレンジをする決意を固めた。
2003年11月19日 福岡ダイエーホークスに8巡目指名された。
 

入団記念パーティにて、王監督(当時)と両親

ホークス

5年間、ホークスでプレイ。王監督の下でプレイできたことは、大きな財産になった。王監督は勝負には厳しく、毎年キャンプの所信表明で『我々はふるいの中にいる。ふるいの穴は年々大きくなっていく。だから自分自身を大きくしないとこの世界では生きていけない』と言われ、常に向上心を持って取り組むことの大切さを教わった。
周りも、超一流選手ばかり。「この中で生き残るためには」を考える日々。毎日の実戦の中で試行錯誤とチャレンジの繰り返し。投手最大の栄誉、沢村賞を獲ったこともある選手が「一年間で、調子のいい試合なんて、1試合あるかどうか。そこに執着するより、いかにマウンド上で自分にできることをやることに意識も向けるか。そこがコンスタントな成績につながる一番の道」と言っていた。

王監督の言葉や選手の言葉は、野球に限ったことではない。その後の人生でも、常に自分の中で生き続けている。

解雇~トライアウト~引退

 体の成長も実感していた2008年秋。解雇を言い渡された。その後アメリカ、台湾、韓国に渡りテストを受けたが、現実は厳しく、獲得する球団はなかった。滋賀に戻り、社会人クラブチームで選手兼任コーチとしてプレイ。ありがたいことに2大大会である日本選手権大会で大阪ドームのマウンドに立ち、野球人生の幕を下ろすことができた。
  
プロ野球選手を夢見て毎日ボールとバットを離さなかった日から、30年余年。たくさんのことを野球から学び、教えられてきた。第二の人生は、「野球以外の可能性がある」という希望に満ち溢れている、かのように思っていた。

引退後

「自分には野球以外の可能性がある」という希望があった。プロ野球選手として活躍していた時に知り合った人の会社で働くことになった。その会社では、ファイナンシャルプランナーとして、お客様の人生設計を手助けする仕事をした。仕事は主に保険営業だったが、成績が思うように伸びなかった。人間関係や金銭面での問題があり、2年ほどでその会社を辞めることになった。

もともと現役時代から体の使い方やコンディショニングには興味があり、自分がやっていたことは多くの人にとって有用なんじゃないか、と思っていたこともあり、知人との共同経営で2011年11月パーソナルストレッチスタジオ「Trim(トリム)」をオープン。トリムとは、整える、という意味を持つもので、私が目指したかった、「動ける体づくり」の最初の一歩に、まずは自分の体を知ってもらう、という想いを込めてつけたものだった。

ストレッチで得た経験

ストレッチには、血行促進、疲労回復、柔軟性向上、ストレス解消、運動機能向上などさまざまな効果がある。

印象的なお客様がおられた。大柄で猫背、お腹ポッコリで声も小さく、「仕事で疲れているんだろうな」と思い、ストレッチを提供した。施術中は無言。「効いているのかな?」と不安を持ったまま60分が終了。「気持ち良かった」と言っていただき、来店時とはうってかわって目もすっきりし姿勢も良くなり、元気に帰って行かれた
そこから週2~3回通っていただくようになり、その中で会社を経営されていることがわかった。2カ月ほど経ったころ「竹岡さん、最近社員に『社長若返りましたね』『カッコよくなりましたね』って言われたんだよ」と嬉しそうに話してくだった。よく聞くと、社員とのコミュニケーションが上手くいっておらず、どうしたらいいかということをずっと考えておられたようだった。
そこからたくさんの社員の方をご紹介いただいた。社員の方は「ストレッチって姿勢が良くなりそうだけど、自分じゃやらないから」と思い切って来てくださる方もいた。社長からは「社員の笑顔が増え、あいさつの声も大きくなり、コミュニケーションも上手くいくようになってきたよ」と喜んでくださり、趣味であるゴルフも飛距離が15ヤード伸びたと嬉しそうに話してくれた。
この社長には本当に感謝している。開業間もない頃から通い続けてくださり、お客様を紹介いただいたことは元より、ストレッチで人を元気にできる、ということを教えてくださった。

ストレッチは、超軽度の筋トレ、ということがお客様の変化からもわかってきた。セッションをこなす中で、体をより良くするにはトレーニングを加えればいいのじゃないか、とトレーニングも併用のサービスを提供開始。
東京のオープンから1年後には、広島を皮切りに、沖縄、福岡、佐賀と出店していった。

お客様との時間は本当に楽しく、夜中まで対応し続けたこともあったが、変化していかれる姿、家族やプライベートのことを楽しく話してくださることが嬉しかった。この仕事を「生涯の仕事」としてやっていく。そう思っていた。
しかし実情は火の車。資金繰りに追われる日々人材育成の難しさにも直面社員、スタッフとの対立、孤立、バカ店長と陰口を聞いてしまうことも。。。毎月毎月、何とかしのいでいるというのが現実だった。現役時代の体の貯金も目減りし、体重が10kg近く落ちた。自分の貯金は底をつき、妻の支援も受けながらという日々。開業して一年後に生まれた長女とは、年に数回しか会わないという生き方だった。

志半ばになるが、今後の人生を考えるようにもなっていた。

事件~現在

2018年2月14日、酒に酔ったことが原因で事件を起こし逮捕された。この一件で、仕事や人間関係、信頼関係など、これまで積み上げてきたものすべてを失った。自業自得だった。
そんな中、地元滋賀の社長から「子供が小さいんだから、まずウチで働いてこれからのことを考えたらどうだ」と声を掛けていただいた。社長からの心遣いと思いやりに、頭が上がることはない。
入社当初、自分が働くことで迷惑をかけられるのではないかと気にしていたが、社長はじめ社員の優しさにも触れ、期待に応えることができるよう、やれることをやろうという前向きな気持ちで働くことができた。
それまで野球に関係する世界だけに身を置いてきた自分は、まだまだ視野が狭いなということを実感した。

石光社長
スポーツフェスティバル(社内運動会)

一方で、プロ野球選手としての生活やトレーナーとしてメンテナンスを行っていたときとは異なる生活に、徐々に体力の衰えやこれまでにない不調も感じるようになっていた。 そんな中妻から「まだやりたいことがあるなら真剣にやり直してみたら」という言葉があり、「もう一度トレーナーとして生きて行く」という決意が固まった。

2023年10月20日 株式会社スマイディア 退職
自分の前に道はない 自分の後ろに道ができる

現在、そしてこれから

『あなたの体を動ける体に』

プロ野球の経験も経営の経験もしてきた。両者、自分の身ひとつで命運が決まるからこそ、健康を大切にし、「運動」、「栄養」、「休養」を取り入れてコンディションを整え、高いパフォーマンスを発揮し続けなければいけない。

だからこそ、経営者の体を動ける体へ導いていく仕事は天職と思えるし、何よりも日々最前線で戦っている人との時間が最高に楽しく、やりがいがある。

どん底だったときに支えてくれた社長や仲間、家族と、これからも共に人生を歩んでいきたい 。苦しかったときに支えてもらえた分、そのお返しをしていきたいと思っている。

経営者が元気になれば、会社が元気になる
会社が元気になれば、日本が元気になる

全力でサポートさせていただきます。

竹岡和宏

家族

※趣味はゴルフ、野球指導(中学硬式野球クラブコーチ)
※アウトドア大好き
※料理もします!
※機能的な動ける体に導きます

竹岡和宏公式LINEにご登録ください!

こんな方はぜひ!
※健康的に痩せたい
※カッコいい体になりたい
※パフォーマンスアップを行いたい

✳️無料コーチングセッションも実施中!

少しでもご興味を持ってくださった方、話を聴いてみたい!そう思った方はぜひ竹岡和宏公式LINEのご登録をよろしくお願いします!

公式LINEにご登録していただいた方全員に
「いつでも使える!体の教科書BODY GUIDEBOOK」をプレゼント🎁


https://lin.ee/y201fz0

竹岡和宏(オフィシャルLINE)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?