ちょっと村上春樹っぽい隣国論

「そういえば」と朝子はいらいらした表情で切り出した。
「ちゃんと謝ってないよね、あなた」
彼女は一枚のカードをテーブルに置いた。タロットの皇帝は牡羊をあしらった玉座に腰掛けていた。
「あの時、きちんと謝ってお詫びにトゥール・ダルジャンでディナーをおごったじゃないか」
僕は少しうんざりしていた。憂鬱な雨の日になると、彼女は決まってこの話をするのだ。
「それに、欲しがっていたカルバン・クラインのジャケットだって。薄給の僕には精一杯のお詫びのしるしだった」
朝子はカーテンを空けて、すこしのあいだ、忌々しそうに雨だれを眺めていた。
「そうね。じゃあ私、南の島に行きたいわ。それで手を打ちましょう」
それから彼女は僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかかったが、何か僕を不安にさせた。
「やれやれ。でも、これでこの話は終わりにしよう」
僕は皇帝のカードをデックに戻して、つぶやくように言った。「僕だって、反省しているんだ。深く、ね」

そして、この土曜日は、朝から、彼女は機嫌が悪かった。

「ふと思ったんだけど、」朝子はダイニングで新聞を読んでいた僕の前に腰掛けた。「私達って、フェアな関係じゃないと思うの」
「なんだって?」
「大学の同期の月子って覚えてる?」
月子は彼女の親友の一人で、誠実でスマートな娘だった。少し正義感が強すぎて、正論が好きな、学生運動の闘士のような感じが、僕は苦手だった。

「月子、今は私の新しい取引先でマネージャーをやっているの。昨日、大手町のアマン東京でランチミーティングしたの」
嫌な予感がした。こういうときの僕の感はよく当たる。残念な才能だけれど。
「やっぱり、あのときのあなたは間違っていた。月子と話してみてわかったわ」

「またその話をするのかい」
「あなた、本当に謝るのが嫌いね。あのときだって」
「あのことはもう終わったはずだよ。」僕はすこし苛立っていた。「約束したはずだ」

最近の朝子は、すこし人が変わったようだった。国際的な半導体企業での新しい仕事は給料も良くて、彼女の自尊心を十分に満たしているようだったが、少なくとも最近の彼女は以前よりも攻撃的だった。月子との再会が彼女にそうさせているのかは、僕にはわからない。

「あの約束は大昔のもの。今とは違う私との約束。だから、無効」
そう言って彼女は、飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。僕と目を合わせずに。
「さすがに」僕は反論した。「それはないね。今の君が過去の君を否定するのは自由だけれど、約束だろう」
もう、どれだけこの話をしてきたのか。この鉛を飲み込んだような不快な気持ちは永遠に続けなければいけないのか。

「あのときの私はまだ何も知らない、世間知らずの小娘だったの。あなたはそれに付け込んで、安く上げたの。わかっているでしょう?」彼女の顔には微笑みすら浮かんでいた。今、彼女は、彼女ではない彼女に支配されているのだろうか。いや、昔からそうだったのかもしれない。「だから、無効」

「じゃあ、あのとき同意したのは、うそということかい」僕はかぶりを振って立ち上がり、キャビネにあるはずのラフロイグを探した。きついピートの香りと一緒に喉を焼きたい気分だった。何より、僕は僕自身の臆病さを制御したかった。「君の論理だと、そうなる。違うかい?」すぐに、僕は後悔した。余計なことを口走っていた。

「一度謝ったぐらいで何だって言うの?あなたは心の底から悪かったと思っているの?」
「謝ったのは一度どころじゃないだろう。それに、簡単に約束を反故にするなんて大人のすることじゃない」
我慢の限界が来ていたのかもしれない。たしかに、僕はあの日、ずるいことをした。彼女には僕を非難する権利がある。でも、彼女は僕を赦し、だからこそ今この家で一緒に暮らしているのではなかったのだろうか。彼女が必死に勉強し、経験と実績を積み、華やかなキャリアを手に入れるまで、僕は金銭的にはもちろん、いつも心の支えになって、彼女を受け入れてきたはずだ。

「きみがそこまで僕を蔑むのなら、僕もきみを心から信じることができない。報われないと解っている誠意なんて、きみのマスターベーションの道具のようなものだ」
「なら、どうするの」
「僕のブラックカード、たまに君も接待でつかってるだろう。今度から、使う前に一言言ってくれないか」
「ふうん。報復ってわけね。強者の権利を振りかざすなんて、失望したわ」

やはり、そしてとうとう、彼女のフラストレーションは天をついた。
「約束とか論理とか。そもそも悪いことをしたのはあなたじゃないの」
朝子は怒りに任せてリビングのドアを開け、二階に駆け上り、ベッドルームのドアをバタンと締めた。
部屋の中で、いろいろな言葉で僕を罵っているようだった。実際のところ、僕は彼女の罵詈雑言には興味を持っていないし、これ以上聞くつもりもない。ただ、これまで幾度となくかわした約束が簡単に破られ、彼女の都合で一方的に、そして永遠に謝罪をし続けなければならないこれからの生活に絶望を感じていた。
キャビネにあったのはシーバス・リーガルだったが、今となってはそのほうがいいかもしれない。そう思ってロックグラスに注ぎ、ニートで飲んだ。やさしいけれど、十分にきつかった。

程なく彼女はトランクを抱えて降りてきた。リビングには寄らず、まっすぐ玄関に向かった。僕が追いかけると、彼女がお気に入りのミッドナイト・ブルーのパンプス --- これもいつかの謝罪で僕がプレゼントした---を履いているところだった。

「どうする気なんだい」
「しばらく別居しましょう」彼女はなかなか靴を履けず、いらだっているようだった。「今のあなたとは、未来のことなんて共有できない」

僕たちのこの争いは、いつまで続くのだろうか。
あのとき、彼女は確かに生活に困窮していた。幼馴染だった僕は、彼女に一緒に住むように提案した。その後しばらくは、僕の稼ぎで彼女の生活を支える日々が続いた。彼女は意を決して大学院に通うことを決めたが、奨学金でまかなえるものではなかった。
僕は、彼女の大学院合格のお祝いに、パークハイアットのディナーと学費の肩代わりをプレゼントした。ポケットには1307号室のルームキーも。

決して強制したわけでも、ましてレイプなど考えたこともない。信心深さのかけらもない僕でも、このことは神に誓ってもいい。でも、性欲のない大人の男女なんて、正常じゃない、と思っていたのも本当だ。僕は彼女を魅力的な異性として見ていたし、彼女もそうであることはわかっていた。ただ、僕は彼女を支配している、そんな邪な心があったと思う。そして、彼女には断る選択肢がなかったことも。僕はその夜、彼女に求婚した。大学院を出て、素敵なキャリアを積んだなら、僕の子供を生んでほしいと。僕の伴侶になってくれるなら借金など返す必要はない。僕はそれを最大限の優しさだと思っていたし、彼女への愛を詩にしたつもりだった。僕たちが抱えている、少しばかりぎすぎすした過去の争いは、僕の提案によってダイヤモンドのような結晶に変わると信じていた。ザルツブルグの小枝のように。

今にして思えば、誇り高い彼女には屈辱的なことだったのかもしれない。そして、僕にも、支配者の奢りがあったのだと思う。

マキャヴェッリは好きじゃないが、善行は悪行と同じように、人の憎悪を招くものなのかもしれない。そして、僕の善行は、実は欲望にまみれていた。

「確かに、今は離れたほうがいいかもしれない。僕らは。」

朝子は一瞬僕を見つめると、右肩でドアをあけて、ぷいと出ていった。不思議と彼女の目は、僕への憎しみに満ちているようには思えなかった。むしろ、助けを求めているようにさえ見えた。彼女は二人の自分の中でもがき苦しんでいるのかもしれない。それが愛と憎悪なのか、論理と感情なのかは知るよしもないのだけれど。


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