空想短編小説:真夜中の温泉17

ぼくと男は、地上絵の上に横並びで立った。
そういえば、今何時だろう。そう思って後ろを見ると、テレビの画面はすでに真っ黒になっていた。
「俺は今まで、いろんな人の顔色に左右されて、自分を持っていなかったからいけなかったんだ」
男は、生垣を見つめながら、ひとりごとをいうようにしてつぶやいた。
「でも、ようやく分かった。はい、いいえ、好き、嫌と、自分の気持ちをはっきりいっても良い。いやいわなくちゃいけないときがあるんだと……。俺は◯×県知事にはならない」
「じゃあ何になるんです」
ぼくが隣で尋ねると、男の口から飛び出したのは、とんでもない言葉だった。
「ミュージシャンになりたい……俺は、歌って踊れるミュージシャン兼作家になるんだ」

絶句するぼくに向かって、男はガッツポーズを2、3度繰り返して叫んだ。
「さあ、君の想いも今ここでぶちまけろ。そして一緒に生垣に向かって飛び込むんだ」
「んなアホな……こんな生垣に飛び込んだら、2人とも鼻血を出して気絶しますよ」
そんなぼくの叫びに対して、男は叫び返した。
「子象が通れるなら俺たちにも通れるんだよ。カカカカカカ……」

完全に発狂している。もうダメだ……。ぼくはそう思いながら、ぼんやりと考えた。
そうだ、自分たちは夢を見ているのかもしれない。どうせ夢なら、できないことをやってみよう。そうしたら、ちゃんと目が覚めるかもしれない。

ぼくは、腹の底から声を振り絞って怒鳴った。
「物事には、見えていない裏側があったのか、チクショー!」
怒鳴りながら、サングラスを生垣に向かって投げた。
「うちの家族はなんでみんな仲良しなんだ! あんなことやこんなことが今まであったのに!」
それを聞いて男は、納得した様子ですぐさまぼくの腕を掴むと、生垣を指差してささやいた。
「さあ、いっせーので行こう。いっせーのだ。1、2のいっせーのでGOだ」
「ほかに、もっと気の利いた掛け声はないんですか」
「そんなものはない。余計な掛け声なんて茶番だ」
こうしてぼくと男は、「いっせーの」を合図に生垣に向かって勢いよくジャンプした。

やがて瞼を開けると、目の前に見えたのは、鬱蒼と生い茂ったジャングルだった。
辺り一面、うだるような暑さだ。
後ろを見ると、生垣がそこにあった。
隣を見ると、男が目を輝かせながら両手を上に広げていた。
「よし、脱出に成功したぞ……」
「いや、でもここはジャングルですよ」
露天風呂から出られても、もといた場所に帰れなければ意味がない。
ぼくと男は、しゃべりながらジャングルを分け入って歩き続けた。
「それにしても暑いですね」
「まさに天然サウナだな」
「天然サウナとはちょっと違うでしょう」
「いやいや、だんだんと整ってきたぞ……」

歩き続けてしばらくすると、突然、月明かりが見えた。やっとジャングルの出口だ。
木々や草花を押し分け、ジャングルを出ると、目の前に小高い丘が見えた。
「あっ!」
ぼくと男は腰にタオルを巻いたまま、仁王立ちになって固まった。
そこに見えたのは、何頭ものアルマジロが群れをなす大草原だったのだ……。
「そうか、そうだったのか」
男は目を閉じてつぶやいた。
「俺が想像した光景は、本当にあった光景だったんだ」
見ると足元に、2頭のアルマジロが丸まりながらコロコロと転がり落ちてきた。

そのとき、地面がゴゴゴ……と大きく揺れた。2人してうずくまると、左右から水しぶきが飛んできた。
見ると、地面そのものが大きく揺れ動いていた。
男が感嘆するようにいった。
「ひょうたん島だ……」
「まさか……」
「ひょっこりひょうたん島だったんだ……あの温泉は」
ぼくの脳裏に、あの懐かしいテーマソングがこだましたそのとき、いきなり身体全体を揺り動かされた。
「もしもし、もしもし」

 後 日 談

あのおかしな1夜から、早くも7年の歳月が流れていた。
ぼくは相も変わらず、寺カフェで働いている。肩書はチーフに昇格した。
男はあれから記者会見を開き、知事にならないと明言したことで、しばらくはマスコミから叩かれていたが、やがて時間とともに風化していった。
今は台湾に移住し、畑をやりながら文筆の傍ら人知れずボランティア活動に従事している。

そして信じがたいことだが、男の代わりに◯×県知事知事になったのはぼくの姉だったのだ。
「令和のジャンヌ・ダルク」と持て囃されながら、メディアに映る自分の姉は、血が繋がった家族とは到底思えなかった。
でも、時折帰省して家族会食で会う姉は、やっぱり昔ながらの姉だった。

あの1夜の顛末は、温泉宿のおじさんの話によると、結局2人ともサウナで我慢しすぎて伸びていたという話だ。
だが、それでは理解できないところがある。男もぼくも、露天風呂での会話や、アルマジロを見たことを覚えているのだ。
氷で冷やしてもらいながら、ボーっとした頭で、男から奢ってもらったアイスを食べながら男と語り合っているときには、温泉宿の空気はすでに生暖かくはなくなっていた。

「いつかお金が貯まったら、2人でバンドを組んで武道館でライブをやろう」
「良いですね」

あの日交わしたライブの話が実現する日は来るのだろうか。それは分からない。
だが、あのおかしな1夜は、ぼくにとってかけがえのない思い出の1ページになった。
物事には、語られない裏側がある。それを察することをあの1夜で学んだ。

そうだ。もっと自然体で生きよう。それでいいんだ。

「真夜中の温泉」完

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