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英語4技能を導入した方がいいのでは?

まずはこちらの記事をどうぞ。
ReseEdさんが実施したアンケート調査より、
高校入試に英語のスピーキングテストを導入するべきかどうかのアンケート結果が書かれています。

https://reseed.resemom.jp/article/2022/08/06/4446.html

詳細を見ると、
教員免許保持者は導入賛成が19%、反対が81%
保護者では導入賛成が14%、反対が86%
でした。

さらにそれぞれの理由を見てみると、
賛成:授業や意識の変化には入試の変化が重要
「中学校段階でもスピーキング力の向上が必要」
「入試が変わらないと授業も変わらない傾向にあるので、入試でスピーキングテストは実施すべき」
「受験が変わっていかないと、グローバルに通用する英語力が身に付くようになっていかない」など

反対:採点基準・導入経緯・不受験者への対応
「採点基準が不明確」
「導入の経緯が不透明」
「教育現場を混乱させる」
「採点内容が非公開のため学習にも生かせないし異議申し立ても出来ない」
「不受験者の点を推算する方法は同等の能力をもつ受験生に対して不平等な扱いをもたらす可能性がある」
「説明が不十分で詳細を把握できていない」など

唐突な始まりでしたが、
今回はこのアンケート結果を受けて、僕が改めて感じたことを書かせていただきたいと思います。

受験が神格化されてしまっている?


今回、ReseEdさんの記事を見て、改めて強く感じるのは
受験やテストを神格化しすぎているのではないかという点です。

僕は高校受験の目的は以下の2つだと考えています。
1)高校生になるにあたり、必要な知識・技能を習得しているかの確認
2)その習得度合いを確認し、個々人の習得度合いに合った学校の判断

それがいつの間にか
高いレベルの学校に入学することがステータスのようになり、そこに優劣が生まれてしまいました。
大人や社会からのプレッシャーもあり、受験の合否に一喜一憂、
受験の結果を社会人になっても気にしながら生きている方もいます。

確かに、受験の合否によって卒業できる学校が変わり、それによって大学入試や就職に影響を与える場合はあります。
なので「受験なんて関係ない」とは言えないでしょう。

受験は、
明確な正解を導き出すことで、
子どもたちの努力を測る公平公正なものとしてその地位を確立している印象ですが、
そもそも本当に公平公正なものでしょうか?
僕個人は全然公平公正なものだと思えていません。

例えば、明確な正解を導き出すという点において、
英語を例にとってみます。
英語は言語です。言語とは時代や場所によって多くの正解があります。
特に英語は世界中で話される言語で、現在ではこれといった正解はないのではないでしょうか?

シンガポールで使われる英語には未来や過去形がないと言われています。
インド英語ではみなさんイメージがつくように発音が全然違います。
ですが、インド英語の話者は1億2000万人で米国の次に多いんです。イギリス英語よりインド英語を覚えた方がコミュニケーション取れる人は多い計算になります。(ちょっと暴論ですが笑)

地域性だけでなく、英米国で使われる英語もどんどん変わっています。
特に顕著なのは名詞の動詞化です。
I gifted her a piece of cake.
のような変化が日常に溢れています。

そして、受験には大きく偏っている側面があります。
テストには必ず傾向が存在します。
受験も例外ではありませんし
それ自体が悪いことだと言うつもりはありません。

しかし、単語や文法を記憶し、
難解な文章を出題者が納得する形で和訳することが
唯一の正解、真の英語力かのように錯覚させてしまっているような気がします。
日本が培ってきた英語試験の規格、つまり局所的な判断基準を重要視してしまっているのではないかと懸念しています。

(新聞を読むように)長い文章を6割の理解度で早く読むことも、
(会議の議事録を書くように)相手が言っていることを自分なりにまとることも、
(友達とおしゃべりするように)早いテンポで意思疎通をはかることも、
同様に英語力であり、正解ではないかと思うんです。

元も子もないかもしれませんが、
僕自身は、テストはどこまで行っても不完全だと考えています。
全ての能力を均等に測ることはできないですし、
あちらが立てば、こちらは立たずということばかりです。

だからこそ、そのテストでは何を図ろうとしているのかを明確にする必要があります。
そうしないと、そのテストを神格化してしまい、できないことが劣っていることのように勘違いさせてしまうからです。

英語の高校入試を4技能にする意味


では、高校入試はどうするべきなのか?
上記のように、テストでは「出題者が何を測ろうとしているか」を明確にする必要があります。

こと高校入試では、何を測っているかを示すことが文部科学省から日本の子どもたちへのメッセージになると考えています。
「どのような能力を身につけてほしいか」を出題内容は伝えるものであるべきではないでしょうか?

今は、
「公平性(評価基準の曖昧さ)」や「関係者の負担」
といった別の観点で本来の目的が阻害されてしまっているような気がしています。

日本人が世界で活躍できる人事になるために、
子どもたちの選択肢をさらに広げるために、
日本という局所的な価値観に縛られず、自分らしく生きられるように、
子どもたちが英語を使えるようになる環境を整えることは
必要なことなのではないでしょうか?

子どもたちの未来を考えたときに、
高校入試というシステムはどういう役割を果たすべきでしょうか?

保護者の意見や、教員の負担を考えることはもちろん重要です。
それらの意見を踏まえた上で、
どのようなメッセージを子どもたちに送るか決断することが重要だと感じました。

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