読了記 ~後悔先に立たず、学びはいつも遅れて~

西川美和『永い言い訳』文春文庫、2016年

死別した妻への、悔恨の回顧。失うまでは疑わなかった「これでいい」、時間をかけながら後悔として少しずつ認識に変わっていく。そのとき通り過ぎた一瞬に比して、再び認識に上り自覚するまでの時間のなんと大きなことよ。

ぼくはお葬式の時に、泣かなかった。何でか、涙が出て来なくて。
ぼくも泣かなかった。お葬式で。…真平が泣いたとき、もしかしたら自分もそう打ち明けることが出来たら良かったのかもしれない。

本文より(一部中略)

ぼくも多分泣けない。6歳のときの祖父の死はわんわん泣いた。通夜はうまいもんが食えていろんな人が出入りするから、こどもながらに心躍らせていたけど、告別式から焼き場へ移動するときに全部が現実になって、泣いた。23歳のときに祖父と祖母が同時期に一気に亡くなったけど、何も感じなかった。祖母に関しては、息を引き取るその瞬間まで病室にいたから、感情の時系列まで分かる。何も感じなかった。
この無感動は、たぶん主人公のそれに通じる。6歳の自分のことを素直というのだと字義を解するとともに、自己の無感動を呪う。いまならきっと、祖母が父母でも恋人でも、やっぱり泣けないと思う。

君はこの結末を、いつからか、どこかで望んでたはずだ。ある日突然、最低のタイミングで最悪な死に方をして、ぷっつりと消えてやろうと。君のもくろみ通り、こんな死に方をされて、全く吐き気がするほど後味が悪いぜ。どうだよ。哀れなぼくが食事や家事にも困ってる様子は。楽しいかい?幸せか?

本文より

ぼくもきっと言ったのだろう。音にしなかったから、文にならなかったからちゃんと認識していないけど、「君」にぼくは同じようなことを言っている。同意や同調なんかではなく、「そう言った」んだと思う。

そしてもう一度、カメラのファインダーに視線を戻そうとしたその時、わたしは見たのです。土井さんの隣で、食器棚にもたれるようにして立ち尽くしたままこちらを見おろしている、津村さんの表情を。…ああ、撮りたい、撮りたい。…誰とも分かち合えぬ、鉛のような、光のない目を。

本文より(一部中略)

ちゃんと表現をされなくてもありありと目に浮かぶその表情ゆえに、ちゃんと表現されたことの痛みは耐え難い。「大切な」人の死に向き合うとき、世人が求める物語や感情がいつもそこにあるとは思えない。でも、それが無いことの辛さや、それが無いことを抱えることになった顛末について、こうも明朗に教えられたことはなかった(今思えば気付く機会はあったけど)。

いままで、自身の無感動を歓迎していた。ことがらに心を奪われず、ただ平静に日常を回転させる自身は強いのだと信じていた。でもそれが、人生の彩りを損ない、愛する人のそばに立つ資格を削ることだと気づかないといけなかった。無感動は悪癖であり、心はいつも動的なものなのだと、崩れてこそ常態であると。自分の心に寄り添い、心のままに在る強さがほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?