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「頑張る」と自分軸

朝のニュース番組でキャスターが「頑張ってください。」と言って、スポーツ選手へのインタビューを終えた。とても一般的な終わり方だと思うし、違和感はない。日本人の日常には「頑張る」という表現や考え方が、はびこっている。仕事を頑張る、勉強を頑張る、スポーツを頑張る、何でも自分がやっていることを頑張る。日本人の価値観の一部に「頑張る」は位置する。

その一方で、最近の書籍等で「頑張らない〇〇」など、「頑張る」を否定する考えが多くみられるように思う。また、私がやっているコーチングなどでも、「頑張る」を受け取る側に変な期待やプレッシャーを与えるかもしれない、とのニュートラルな配慮の観点から、私は使わないようにしている。

この無意識に使われがちな「頑張る」という言葉だけれど、其々の話の内容、「頑張る」度合、「頑張る」を受け取る側の思考や感情の状態などにより意味合いが大きく違ってくるようだ。

そもそも、「頑張る・がんばる」ってどういう意味?
また、今流行っている「頑張らない・がんばらない」ってどういうこと?

「頑張る」とは、
① 忍耐して、努力しとおす。気張る。
② ゆずらず強く主張し通す。

① の定義に従ってこの言葉を使っていたとしたら、かなり辛そうだ。歯を食いしばって、苦しい思いをしながら行う感覚を「頑張る」当事者が自分自身に向けて使うなら勝手だが、周囲の他人が当事者に向けてこの言葉を投げるのは、とても押し付けがましい。ほっといて欲しい、と私なら思う。

②の定義に関しては、「頑・ ガン」の意味である「融通がきかない。かた意地。かたくな」を「張っている」ことに基づいているのだろう。一見、自分軸の観点から重要そうに思えるが、「我を押し通す」「単なる頑固」のようなニュアンスがある。「頑」を英語訳するとstubbornやclosed-mindedとなるようで、自分軸のバランスを取ることは、固執したり、心を閉じていては達成できない。

しかも、「我を押し通す」「単なる頑固」は、集団主義の日本社会・文化では最も秩序を乱すような感じがする。他人が一生懸命やっている人を見て、秩序を乱されたと感じている他者は、「頑張ってるねぇ〜」と馬鹿にして使うことがありそう。

ハッキリ言って、これら定義を見る限り、「頑張る」は碌でもないと思う。
なのに、どうしてNHKのキャスターや人々は偉大な大谷選手にさえ「頑張ってください!」と声をかけてしまうのだろう?他人がどうこういうべきでないことに対し、この言葉を図々しく投げるのだろう?どうして日本人は現代でも、この言葉と付き合い、使っているのだろう?

私が勝手に思うには、実際の社会では、この言葉の元々の意味が薄れ、辞書よりもっと幅をもった便利な言葉になっているからではないだろうか?

この言葉を英訳するとき、私は瞬時に"Good luck!"とか"Do your best!!"と言い換えてしまう。それは、NHKのニュースキャスターのように、発言している本人が軽く、ポジティブな意味合いで使いたいという思いを感じるからだ。もう既に努力し続けている大谷選手に対し、元々の意味の「頑張って!」を投げかけるのは、「もっとやれ!」と言っているようで、余りにもおこがましい。

もし、あなたが元々の意味の「頑張る」を拭えないなら、「頑張る」から一歩下がって、見つめる必要がある。

「頑張る」は、誰のために使う言葉か?

本来、人から言われる言葉ではなくて、自分との対話で使われるべき言葉なのだと思う。自分を励ますために使う言葉であるべきで、他の誰かから押し付けられる言葉ではない。

「自分軸」の観点から言えば、「頑張る」こと自体には、良くも悪くも意味はない。頑張ることは良いこととか悪いこと、というのは誰かの価値観だ。それは自分の価値観かもしれないし、他人の価値観かもしれない。だから頑張っても頑張らなくても良い。

「頑張る」は単なるコンセプトであり、それをハッキリ定義しない限り、無限の「頑張る」ループにハマる。自分として、どこまでが頑張ってなくて、どこからが頑張っているのか?どういう状況が、自分にとって頑張っている状況なのか?

これは、自分の「境界線」を定義するのことにも似ている。自分の境界線を知らずして「頑張る」ことは、辛くなる。単に無理をしていることかもしれない。自分の境界線を考え、引く。それは、「自分」を定義すること。その境界線を意識的に超える、超えないは、自分次第。

「頑張る」行為は、自分自身の「境界線」との距離感やその距離から受けるエネルギーを感じるための言葉なのかもしれない。今、自分は頑張り過ぎているのか?(無意識に境界線を越えてしまって、疲弊しているのか?)それとも、頑張りが足りないのか?(単に怠けているだけなのか?)自分の主張は、我を張るためだけのものなのか?それとも、自分の価値を主張していくために正当なものなのか?

  • 日本社会で頻繁に使われるこの言葉を、どう受け止め、どう対処していくかは意外に大事かもしれない。自分軸を持って生きる以上、自分の境界線を理解し、自分なりに定義したとき、「自分らしく、がんばる」ことができるのかもしれない。また、その境界線を越える決断をして努力する時、本当に「がんばる」のかもしれない。でもそこまできたら、がんばろうが、がんばるまいが、それはどうでも良いことになるかもしれない。他の人には関係なく、自分がやりたいことをベストを尽くしてやっているだけだから。

追伸:日本の文化や考え方に深く根ざしすぎて見過ごしがちな漢字の「頑張る」は、辛そうだから、後半は「がんばる」と漢字表記を越えた、平仮名表記にしてみました。また、gambatte!と英語表記にすると、エールを送っている感じになる?

追伸:自然は私の先生。この写真のカラスは頑張って生きているのか?ただ生きているだけだと思う。このカラスに聞いていないので、真相はわかりませんが。

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