見出し画像

人のタイトル付けに疎くなった話

仕事でのお付き合いだけだった日本の知人を招いて一緒にランチをした。

かつて自分がいた場所が懐かしくなった。


昔、姉がいつも自分の友人の話をするのに前置きがあった。
OO大学を出て、XXに勤めている△△役職の人、
あるいはその奥様なんだけど
という説明。そこに正確な年齢がついているときもあった。
あるとき
なぜいつも出身大学名から言うの?
と聞いたことがあった。

しかし
私自身も姉の説明から
瞬時にその人を頭の中でカテゴライズしていたことに気づいた。

そしてそれは私の思い込みのせいか、あるいはいったん分類されると人間というものはそのグループの一員らしくなっていくのか、たいてい年齢、出身校、そして社会でのグループに誰もが遜色なく属しているように見えたものだ、そのころは。


んなはずはないのに・・・

私がちゃんと見てこなかったせいなのだ。
グループ分けをしてしまった時点で思考が止まっている。

先日ランチにやって来たその知人も
姉と同じように出身校から~の役職、年齢などの前置きがあった。

そしてつづいて私の年齢も聞かれた。
答えると
彼女が自分は”イッコ”下だと言った。
同じような年代ですね?と彼女が付け加えた。

同じようなって1歳違いって同じ年代じゃないの・・?(笑)

イッコ違いも重要だった日本の文化を思い出した。

彼女はかつて私がいた場所に今もいた。

私の頭の中にあったグループ分けはすなわち、自分自身が他人からどう見られているかの判断でもあった。
他人が思っているだろうカテゴライズから
私ははずれてるんだろうなあと
カテゴライズに縛られた私が
かつていた。

自分の頭の中にあるグループ分けは
全くもって
無意味だった。
日本の外に立ったとき
それがはっきり見えた。

そこには
どのカテゴリーにも属さない
夫がいて
友人がいて
そして
私がいた。

ああ、なんて自由なんだろう


日本をしばらく離れて、
日本でのカテゴライズの常識的感覚を
すっかり忘れていた。

ランチに来た知人は
私が昔持っていた頭の中での感覚を
思い出させてくれた。

知人の話が懐かしくさえあったのは
そんなカテゴライズの考えから私は
すっかり自由になっていたからかもしれない。

懐かしくもあり
そして
愚かな思い出でもあり。

ランチは
かつてお豆腐屋さんだった
夫ジェイの薄揚げレシピ。
野菜やチキン、エビなど好きな具材を薄揚げに詰めわさびマヨネーズ醤油で食べる。
ライスは細長いタイプのお米の玄米とワイルドライスのオリーブ和え。

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。