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東京唯一の養蚕農家 長田さんのむかし語り

東京都で唯一となった養蚕農家が八王子加住にある。それが長田誠一さん、晶さんご夫妻で営まれている「長田養蚕」だ。八王子の民俗について興味を持った昨年(2021年)、たまたま今や日本全国でも貴重となった養蚕農家さんがいらっしゃると聞いて(大日本蚕糸会の調査によると、2021年時点の養蚕農家戸数は186軒)、ぜひ話を聞いてみたいと取材を申し込んだ。その時の記事が、以下だ。

取材に行った時は、6月の終わり頃で、春蚕(ハルゴ)の出荷が終わったタイミング。養蚕の現場をその目で見ることは叶わなかった。そのため今年(2022年)の春蚕が始まってしばらく経ったタイミングであらためて長田誠一さんにお願いし、養蚕の多忙な時期の合間をぬって、蚕に桑を与える給桑の様子と、上蔟して回転マブシでお蚕が繭を作っているところを見学させていただいた。養蚕文化に興味にある私にとって、これは大変貴重な体験だった。

飼育台の上でもりもり桑を食べるお蚕さん
主屋の上の「オオダナ」に回転マブシを吊るす。ここでお蚕さんが繭を作る

ところで取材や見学の合間に長田さんの話を聞いていると、養蚕の話ももちろん興味深いのだが、子どもの頃の体験談がこれまた面白く、この部分だけ切り取っても、養蚕農家の暮らしぶりに関する貴重な証言になるのではないかと思い、記録という意味も込めて、本記事を書くこととした。

昔がたりといっても、誠一さんは今年で51歳(1970年生)。決して「昔話の語り手」となるほど老齢しているわけでもないのだが(養蚕農家の担い手としてもかなり若い方ではないだろうか)、話を聞いていると、まるで明治生まれの古老の聞き書きを読んでいるような錯覚を覚えてしまうのだ。

昔話に関しては、まとまった証言というよりも、断片的に聞きとった部分が多いので、無理矢理にストーリー仕立てにするのではなく、そのまま断片的に書き綴ってみたいと思う。

ちなみに、誠一さんのお父さんである泰一さん(1935年生)は、1990年に54歳で急逝されている。当時、高校生だった誠一さんは家業を受け継ぐことを決意し、祖父と母に養蚕を教わりながら養蚕農家としての技術を身につけていったそうだ。

●ヤギの乳の味

やっぱり昔はね、ヤギが人間の乳に近いので、どこの家もヤギを飼っていたんですよ。

畑でとってきた桑をお蚕さんに与える長田誠一さん

要は戦時中は、たくさん産めや育てや時代だったんですよ。だからうちの父も9人兄弟。ちょっと前に、一番下の叔父の、母子手帳が出てきたんですよ。そこにカタカナで書いてありました。「日本国のためにたくさん、子を産み育てよ」と。あれが一番笑いましたね。だから(兄弟が多いから)、母親の乳が足りなくなってくるんですよ。そうすると、ヤギの乳が一番人間に近いから、ヤギをどこでも飼ってました。

そうなんです。そんな時代だったんだなってね。で、父を亡くした後も、しばらく家にヤギいたんで、やっぱり飼いきれないからね、欲しい人に差し上げたんですけど、いる時はずっとヤギの乳を絞りましたね。朝と夜、必ず絞らないと、お乳が溜まって乳房炎になってしまうので。

ヤギってすごい脂肪分高いので、うちに猫がたくさんいた時に、猫もヤギの乳を飲んでたんですけど、毛がツルツル、頭に天使の輪ができてましたよ。テッカテカ。

父もヤギの乳をずっと飲んでたんで、もう脂ぎってましたね、肌は。でも、ヤギの乳、まずいですよ。うち土間なんですけど、土間でずっと温めてると、あの匂いが臭くてたまらないの。温めると表面になみなみとこう、脂肪が浮くんですよ、薄く脂肪の膜が。それを取り除けばいいんですけど、バラバラに崩すから、飲む時に喉にグッと引っかかるんですよ。美味しくないですよ。ヤギの乳。やっぱり牛乳がね、飲みやすい。うん。でも今思うとね、結構贅沢なもの飲んでたんだなっていうのは思います。

小学校の時は、おじいさん(祖父、1900年生まれ)が厳しかったからアイス買ってもらえなかったんですよ。だから母と買い物に行った先で「ここで食っていきな」と外でアイスを食べたことはよく覚えてますね。冷蔵庫にジュースやアイスなんて入っていない我が家(笑)

その代わり、家に帰れば夏はヤギの乳がいつでも凍らしてありました。昔、アルミでできた氷作る「シャキシャキ」ってやつがあったんですけど、それにヤギの乳を入れて凍らせて。それが我が家のアイスでしたね。最初、冷たくて美味しいんですけど、喉越しがカルピスの原液を飲んだような感じで、ちょっと喉にグッとくるんですよ。なんかぬるっときて、ああ気持ちわるいって、また水を飲まないといけない。私が小学校3年生ぐらいの時に友だちンちに行って、ヤクルトを凍らしたのを食べさせてもらったんですけど、あれ美味しかった。本当に明治時代の証言みたいだな(笑)

夏場はそういうものを食べて、冬場はサツマ蒸したやつがいくらでもあった。それがおやつでしたね。だるまストーブで温めなおしたりとかしてね。冬は冷えるんでよく物置とか、蚕やってる小屋(条桑小屋)の中にサツマが置いてあるんですよ。蒸したやつが。それをひょいっと取って食ってましたけどね。

お金持って近所でおかし買えるとかそういう状況ではなかったんでね。私のね、暮らした状況が。

回転マブシを吊るすオオダナでもお蚕さんにとってちょうどいい室温を維持するよう暖房を入れている

肉やウインナーは普通に買ってましたが、焼肉や唐揚げなど贅沢はできませんでした。肉で贅沢といえば、隣が肉用の鶏を飼ってた農家で、たまにそこの鶏死ぬと、親父よくもらってくるんです。ほんで首を落としてやって、足を縛って物置の一角に吊るしてありました。低いところに吊るすと猫が来るんで、高いところに吊るしておくと。で、下に血受けのバケツがあって。その鶏を夜、だるまストーブでお湯を沸かして、バケツに水入れて、浸けながら今度毛をむしる。んで、あとは出刃包丁で綺麗に腹割いて、うんことか砂利とか全部綺麗に退けて。肉を分けて、串にさして、七輪で炭をおこして、焼き鳥。それがね、本当にご馳走だった。

●肥やしについて

明治の家なんで、普通にボットン便所でしたね。父が亡くなった後もまだボットンで、私が21か23ぐらいまで。(便所の)カメが小さいので、一週間で、人間のうんこと小便たまっちゃうんですよ。それを、柄杓と樽で、木でできてるから、3日ぐらい水に浸けてふやかして、スキマをぴっちり埋めなきゃいけないんですよ。一週間に一回、柄杓で汲んで、うまくすくって入れないと、顔に跳ねるんですけどね、一輪車に乗せて、桑畑に運んでいって、桑畑にまいてましたよ。平成の時代の話なんですけどね。

畑に生えている桑の葉

桑畑では、父の時代、昭和40〜50年代の話ですが、うずらの死骸も肥料にしていました。うずらは一年経つと卵を生む能力が落ちるので、もう潰さなきゃいけない。だから生きたまま袋に詰め込んできて、うちに来る頃には死んでるから、息絶え絶えの状態。それを普通に桑畑にまいてましたから。だから普通に腐敗臭がするし、うじもハエもわくけど、子どもの楽しみとしては、(畑からうずらの)骨が出るから、これが面白いんですよ。ちょうど羽の部分なんか、孫の手のちっちゃいみたいな感じで。それで骨の仕組みを勉強したりとかね。

うちは子どもの頃、普通に五右衛門風呂でした。桑の束ね、夏場は2束で、冬は3束は使ったかな。ぬるくなってきたら、自分でまた燃やして、加減しながら風呂に入ってました。で、電気毛布は、おじいさんとおばあさんが使う高級なものだったので、私たち子どもは豆炭使ってました。菱形のこのぐらいちっちゃい炭の塊で、それを火に入れると真っ赤になるんですよ。それを(灰式カイロ?の)耐熱の布か何かにポテっと置いて、それでパタッと締めるです。それを、かっちり閉めて、毛布でぐるぐるまきにすると、ほっこり温かいんです。湯たんぽみたいな。でも巻き方が甘いと熱くて低温火傷をするので、巻き方がポイントなんです。

子どもの頃にそんな暮らしをしていたもんだから、たまに年配者に「長田くん、君いくつだ。我々(の世代)と同じだ」って言われるんですよ(笑)。いやいや、高度成長の真っ盛り、昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫が割腹自殺した、あの日の夜に生まれましたよって。

●田んぼと集落しかなかった

家の目の前が川(谷地川)だったんで、帆船ごっことかしてよく遊んでましたね。堰があって流れも穏やかだったし、風も下から吹いてくるんで。そうです、堰があったんですよ。だから屋号が「堰場(せきば)」なんですけどね。(当時の)船とか潜水艦のプラモデルって、後ろにゴム動力で動くスクリューがあって、あれを一生懸命指で回して水に浮かべると、バーっと進んでいく。そういうのがない時は、肉とか入ってる白いトレイがあるじゃないですか、発泡スチロールの。あれに割り箸をセロテープでうまく立てて、割り箸をHの形に組んで、そこにビニール袋で作った帆を固定して、風を受けて進むようにする。今は河川改修をやってしまったので、そんな風に遊べないですけどね。

長田さんの家の前を流れる谷地川

子どもの頃はちょうど高度成長真っ盛りだったから、ここらへんはやっぱり下水完備も遅かったんで、家庭排水が川に流れ、川が一気に汚れました。タガメとか、普通にメダカもいたんですけど、あとハヤ、この辺の田舎では何にでも食いついてかかるから、”バカみたいなハヤ”で「バカッパヤ」って言うんですけど、そのハヤとフナが一緒にいなくなったかな。どじょうもね、でかいのもいたんだけどいなくなっちゃった。で、下水がきちんと法律で管理されて、川に流れてこなくなったから、今だいぶ綺麗になって、魚も戻ってきましたね、

田んぼがあった当時は山の方にサワガニもいたんですよ。ここら辺はね、河川改修で水が上げられなくなって田んぼができなくなったので、じゃあ土入れて畑にしようということで、みんな畑にしちゃって。それまでは川の向こう側、今の新滝山街道の方は全部田んぼでした。家があったり田んぼがあったり。こっからまっすぐ先に山があって、向こうにちょっと集落がちょこんとあって、田んぼでした。だからいい田舎の風景でしたよ。

八王子でいうと、昔のみなみ野とかがそうですね。多摩ニュータウンにしろ、みなみ野駅にしろ、本当にただの山奥の原生林のいい所でしたからね。(みなみ野は)本当にただの山でした、集落が点在してる。隣の家まで100メーターぐらい離れてるのかな、本当に真っ暗でしたよ。ただ、横浜線がポツンと単線で走ってる田舎。何回か(横浜線は)乗ったことがあるんですよ。滅多に乗らないですから。あれは30年前か。親父が横浜の方の病院に入院してたんでね。ちょうど19の頃に見た記憶があるので、じゃあ平成初期の頃はまだあの風景があったのかな。最近です、あそこが開発されたのは、あっという間に山の動植物を死滅させたっていうね。

八王子では由木の方にもう一件養蚕農家があったんですけど、すぐ裏手の山の桑畑が開発で持ってかれてしまったんですよ。今、地図で見たら「えっ」と思って。うちで桑が足りない時、もらいに行ったりもしたんですけど。そこの山とられちゃって、開発するからっつって。抵抗したんですけど、息子がいないから駄目なんだって。

●明治生まれのおじいさん

(おじいさんは)昔は確かにね、おっかなかったって話ですね。私は孫ですから、(周りから見れば羨ましがられるじゃないすけど)そんなに叱られることもなかったですけど。今もそうなんですけど、学校の前が桑畑で、子どもが野球やって桑畑にボール飛んでくると、そのボールと来たガキをふんづかまえて、子どもの耳を引っ張って職員室まで行ったそうですよ。昔のおじいさんの、結婚当時の写真かな、を見ると、あの当時の生まれにしてはもうガタイもよくて、おっかない顔してましたよ。

誠一さんの祖父、喜兵衛さんは生前近くのお寺で念仏もやられていたそうだ(画像は東京都教育庁社会教育部文化課 編『東京の民謡 東京都民謡緊急調査報告 区部・多摩地区編』。なお「喜平」は誤字)

私が生まれた年(1970年)に、おじいさんが70歳か。その時の話なんですけど、奥多摩にね、あと何日か待てばちょっとしたお金ができるとか、とにかく何か取りに行くものがあったらしいんですよ。それをもう待てねえからって、車の免許がないので自転車で元気に取りに行ったらしいですよ。1970年台の道路を奥多摩まで、自転車で。

おじいさんは100と11カ月で死んだんですけど、100歳過ぎても畑行くのに自転車乗ってましたから、チャリンコにいろんな道具巻きつけて。たまに運べねえから持ってきてくれよっつって(頼まれて)。畑行って怪我しちゃなんかもうね、皮膚がもう脂のってない状態で、引っかかると簡単に破けるんですよ。だからたまに血だらけになって帰ってきたりとかね。

戦争はね、予備役で満州だったかな、どっか行って訓練だけはしたって言ってましたね。「寒いとこに連れてかれてよお」って。みんなで凍えながら、ストーブに当たってたって。私、20代の頃はサバゲーに没頭してていたんですけど、家の土間のところで、買ったばっかのJACのエアタンク仕様のエアガンをカチャカチャやってたんですよ。そっから、またおじいさんの(戦争の)話が始まって、三八式歩兵銃でなあって。あれ当たんねえだよって言ってましたね。

●桑の木を燃して畑に返す

小学校に養蚕を教えに行くことがあるんですけど、それとは別に古い暮らしの体験みたいな授業もあって、そのお手伝いに以前はよく行ってました。学校で七輪とか焚くんですけど、先生が火起こしできないし、授業の決められた時間の中で、子どもたちに炭を配って、火の起こし方を方を説明して、撤収しなきゃいけないから、長田さん炭起こしに来てって。

子どもたちの焼き方を見てると面白いですよ。焦がしちゃったりね。最近はIHだからか、火を知らない子どもたちが多いです。だからキャンプでいきなり火を使って危ない目に遭うとかね。チューブ入りの着火剤ってあるじゃないですか。あれを思い切りぶち込むやつがいるんですね。するとはねるんですよ。皮膚にあたってさあ大変。だから今の子はそこまで知らないから、いろんなことを教えてあげなきゃいけない。火って熱いんだよというところから教えてなきゃいけない。

だから私たまに桑の木、終わって片付けた後、これお蚕の話ですね、終わった後に畑に桑の木を置くんですよ。よく乾かして、冬場に燃やすんですよ。最近は野焼きとか、うるさいこと言われるんですけど、でもこれは畑でとれた桑の木を燃やして、灰と炭にして、また天に返すと言う神事なんです。

(野焼きにをすることについては)うるさいですよ、やっぱり。でも、だいたい近所のおっちゃんたちもやってるんですけどね。それに(野焼きを)やるにしても、真昼間にはやりません。洗濯物があったりとか(して、匂いがついてしまうから)。だから朝早く起きて、日が昇るくらいまでに、だいたい6時ぐらいから始めて、7時半には終わらしちゃう。夕方は周りが洗濯物、もう片付けたなっていう時間にやったりとか、あと風がない時を選びます。あと、煙らさないように、火力を強くして炎だけを出す。だから綺麗に燃やすっていう、そこだけは工夫しております。

それで、たまに野焼きをやってると(畑の前を通りがかった子どもたちが)「長田っち何してんのー」って、「燃やしてんだー」って。そうやって、たまに子どもたちに火遊びさせてます。子どもたちには楽しく経験させるのが一番ですね。はい。そんな感じです。

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