見出し画像

カネ思考の呪い

私は理論屋なので、いつもは経済の理屈ばかり話してるんですが、このノートではもうちょっと感覚的な話をしてみたいと思います。一番伝えたいのは、私たちがみなカネ思考に陥っているために、貧しくなる選択をし続けている、みたいなことです。

無意味な対立

日本の社会について、あるグループ間の経済的な対立が言われることが多くなったように思います。早くから言われていたのは、いわゆるブラック企業で、経営者が従業員をこき使う的な話です。従業員はできるだけ給料がほしいけれど、経営者は逆に人を安く使いたい、という対立です。今となっては企業がブラックなのは当たり前になってしまい、ブラック企業という言葉は使われなくなってしまいました。

最近では、社会保障費用に関して、高齢者と現役の対立が聞こえてきます。高齢者にかかる費用が高いから、現役の社会保険料がどんどん上がる、みたいな話です。

さらには、医療従事者と一般の人々を対立させるようなことも言われるようになりました。医療者側は診療報酬の不足を言うけど、それは一般の人々の負担を増す、これ以上社会保険料や消費税は払えない、というようなことです。

これらの対立は全部、ある額のお金がどこかにあって、それを誰にどれだけ渡すか、という話になっていますよね。全体の額が決まっているなら、それをどう分配するかという問題にしかなりません。

逆にもし、その全体の額が大きくなったなら、問題は解決しそうに思えませんか。

このような思考様式——豊かさをお金の額で考える——を「カネ思考」と呼ぼうと思います。カネ思考は、私たち自身と私たちの経済に蔓延していて、私たちの判断を至るところで誤らせている、と私は思います。政府当局も、また経済の専門家も、そして私たち一般人も、この思考法にどっぷり浸っています。

上の対立もカネ思考の産物で、そこで対立していても問題の解決に全くつながらない無意味なものだと私は思っています。だから、このような対立を見るのはとても悲しく、それがこのノートを書こうと思った理由です。

経済の実体はカネではなくモノ

私たちは生きるためにいろいろなモノを必要とします。経済学の言葉で言うと、商品やサービスです。お金はそれらを買うために使いますが、お金自体は私たちの生活に使えません。お金を食べたりして生きてないからです。お金は、私たちが必要なモノを手に入れるために使う媒介物です。お金は経済のための手段であって、目的ではありません。

サラリーマンは働いてお金を稼ぎ、そのお金で食べ物を買って暮らします。このとき、サラリーマンの労働力と、食べ物が、お金を仲立ちにして交換されます。サラリーマンにとって重要な問題は、どれだけ働けばどれだけ食べられるかであって、金額としてどれだけ給料がもらえるかは間接的な問題です。

ところが私たちは経済を金額の問題として考えがちです。月給が20万円あれば暮らせるだろうとか、コンビニ弁当が800円なら高い、みたいな感じです。私たちにとって経済の目的がモノであることを考えると、この考え方は不正確と言えます。より正確には、自分が1か月働くことに対して、どのようなコンビニ弁当をどれだけ食べられるか、と考えることでしょう。

でもいちいちそう考えるのは大変なので、私たちはシンプルに、金額という数字で経済の物事を判断します。この単純化は、たいていの場合には役に立ちます。たいていの場合とは、モノの値段が変わらない、短い時間で何かを判断する場合などです。例えばコンビニで、500円の弁当と800円の弁当のどちらを買おうか決めるとき、今の給料でどちらのほうが多く買えるかは金額を比べるだけでわかります。

この判断方法は、ときに大きな間違いにつながります。老後のために貯金するとしましょう。2千万円くらいあればとりあえず安心でしょうか? いや、それは実際に老後になったとき、モノの値段がいくらになるかで変わってきます。もしかしたら物価がとても上がってしまって全く足りないかもしれません。

このような判断ミスが、日本の税、財政、社会保障の至るところに起きていて、私たちを苦しめているように見えます。金額で考えるのは簡単で、しかもシンプルなために正しく感じられます。人間の認知はそういうふうにできていて、「老後に2千万円必要」と言われれば、いやいやそのときの物価にもよる、などとは考えず、すぐに「そうかもしれない」と思うのが普通です。

どんなミスが起きているのかを見てみたいと思います。

カネ思考による判断ミス

まず社会保障です。社会保障に多額の費用がかかるため、それをまかなうお金を消費税や社会保険料で集めようとしているけれど、どちらの負担もすでに重い、どうするか——これがいま大きな問題になっていますね。まさにカネ思考です。

社会保障を受ける人が必要としているのは、カネではなくてモノです。生活保護なら食料や住居(賃貸のサービス)、医療なら薬や診察(医療サービス)などです。

ここで大きくイメージして下さい。日本でいま作れるモノの総量というものがあります。その総量は、生産のためのさまざまな仕組みで決まってきます。例えば企業(病院とか)の設備や人員の配置、流通システム、それらを支えるインフラなどです。これらによって決まる生産力は、いきなり大きくすることはできません。私たちが新型コロナ禍で、マスクや消毒用アルコールの不足で経験した通りです。

社会保障もその生産力の中で行われます。それと同時に、社会保障を支える人々(現役と呼ぶことにします)も、モノを使って生きなければなりません。つまり社会保障とは、現役が生産するモノの一部を社会保障に回す、というかたちで行われています。

現役から社会保障へのモノの移転がお金を使って行われています。サラリーマンが払う社会保険料を考えてみましょう。サラリーマンは働いた給料から社会保険料を取られます。それによって、自分が提供した労働力と交換に本来得られたはずのモノを買えなくなります。そのお金を得る人が、その分だけモノを買えるようになります。例えば診療報酬を得たお医者さんは、それで食料を買ったりできます。

もしも、現役からあまりにも多くのモノを社会保障に回してしまったらどうなるでしょうか。社会保障は手厚くなりますが、現役が手に入れられるモノが減ってしまいます。現役の人々もモノを使って生活しているので、その生活は苦しくなるでしょう。

社会保険料や税金の場合は、それによってお金を取られた人がモノを買えなくなるというかたちで社会保障を負担します。これに対して、なら国債でまかなえばいい、という話をする人もいます。しかしそれでも問題は同じです。

社会保障費用を国債で出すことにしましょう。国債は政府の借金ですが、返済をとりあえず考えないことにすれば、お金を作り出すのと同じです。そうやって増やしたお金を、医療サービスにつぎ込むとします。お医者さんがそれを受け取ってサービスを提供したいと思うためには、そのお金でモノが買えなければなりません。すると、それだけのモノをやはり現役が買えなくなります。

具体的には、お医者さんがほしいモノを買えるだけのお金を政府が渡すとき、普通に稼いでいる現役との競争が起きて、値段が上がってお医者さんが買える、という状況になります。これは現役の人々の実質所得(金額ではなく、買えるモノの数量で見た収入)が低下するということです。

ですから、現役の負担が重くなりすぎず、また社会保障を厚くするには、モノの総量を増やす、つまり生産力を上げる必要があるのです。社会保障費用を、社会保険料や税金で集めるか、国債に頼るかはここでは関係ありません。同じ理由で、お金をどこから集めても——金持ちの資産から取ろうが、企業の内部留保から取ろうが、政府が金融資産を運用して増やそうが——この問題は解決しないのです。

カネ思考では、とにかくお金さえどこかから手に入れれば、社会保障の問題は解決しそうに見えるでしょう。それは大きな間違いです。実質GDP(金額でなくモノの数量で見た生産量)の推移と、GDPに対する社会保障支出額の比率(現役の負担を表します)の推移を見れば、実質GDPの成長が鈍化したために後者が10%から20%以上に増えたことがわかるでしょう。(データはそうなってるはず)

それなのに、政府も財務省も経済の専門家も、そして私たちも……すべての人がこの問題を、いかに社会保障をまかなうために収入を増やし、社会保障にかかる支出を抑えるかという問題としか認識していません。そういう認識だから、社会保険料に関する高齢者と現役の対立であるとか、診療報酬をめぐる医療従事者と一般人の対立とか、そういう問題に見えてしまうのです。

そこは本当は助け合いとか協力関係になっています。現役が作ったモノが医療に回されるとき、現役がより多くのよいモノを作れば、より多くのよい医療が提供されます。それは両方における技術の進歩や設備の強化、それらを支えるインフラの改善などで行われます。それによって両者が提供するモノが増えれば、両者が幸せになれます。しかしこれを双方の間のお金の奪い合いだと見てしまうなら、経済の本質を見誤り、両者が幸せになれる方策を探し当てることは難しいでしょう。

社会保障に関連して、カネ思考によるもう1つの致命的なミスを挙げましょう。消費税は、消費者が払う税で、事業者はそれを預かって納めるだけだと一般には思われています。なぜ事業者自身が払っていないかは、次のように説明されます。

「事業者は、消費税がない場合の価格に、税額を上乗せして売り、消費税分を納める。だから事業者自身は税を払っていない。」

これは、消費税がない場合と同じ金額のお金を手元に残せるから、税を払っていない、という説明です。これもカネ思考ですね。

事業者は、商品(やサービス)を提供することで、別のモノを手に入れます。その仲介をしているのがお金です。消費税がない場合に、事業者が商品を売って手に入れたお金でモノを買うとき、自分の商品と、それとの交換に見合う、何らかのモノを交換しています。

消費税がある今、事業者はある商品を提供して、その対価の一部を政府に納めて、残りでしかモノを買えません。すると、納税義務がなければその商品と(お金を通じて間接的に)交換して手に入れられたはずのモノ——つまり自分が提供する商品に見合ったモノ——が手に入れられませんよね。消費税がないときとこれは違います。

どういうミスが起きたかと言うと、消費税がない場合と同じ額のお金を手に入れたのだから、状況は変わっていないと認識してしまった……いや、認識させられてしまったのです。消費税制度がカネ思考の説明であり、その説明が、カネでしか思考していない私たちに正しく聞こえるのです。

市場で自分が提供するものと交換に手に入れられるものは自分のものだ。これは自由主義経済の鉄則です。この鉄則が、数字でごまかされているのが消費税制度です。同じ理由で、消費者は自分が提供したお金と交換にモノを手に入れるだけですから、消費税を払っていません。

壮大な事実誤認と言えるでしょう。私たちは、お金を多く集めれば社会保障がうまく行くと思っていました。そして消費税なら、働いていない人々からもお金を集められるから、多く集められるだろうと思っていました。しかしその両方とも判断ミスです。消費税導入以降の社会保障財政の悪化はまさにその証拠でしょう。

誰から税金を取っているかを見誤っているなら、その税金の影響だって正しく見極められないでしょう。「失われた30年」と呼ばれる期間、消費税と社会保険料は強化され続けてきました。そしてそれと並行して、社会保障がどんどん困難になっただけでなく、経済は停滞し、給料は伸びなくなってしまいました。日本の経済は壊れ続けていると言っていいでしょう。

その破壊のメカニズムについてこのノートで詳述することは避けます。消費税は付加価値税の別名であり、生産とは付加価値の創出であることと、社会保険料は他国では一般に給与税と呼ばれており、企業に課されるそれは給料を出せば納税額が増えることくらいを指摘しておけば、(カネ思考ではない)合理的な判断には十分かなと思います。

カネ思考の呪い

経済は複雑で捉えどころがないのに、それを金額で表すと非常にはっきりして、高度な数学でさえ適用できます。しかし経済をお金という断面のみで捉えて判断しようとすると、ここまで示したように、経済の実体であるモノを考えた場合と異なった答えが出ることがあり、それはときに真逆の判断につながります。

私たちは誰でも豊かになりたいでしょう。その判断基準として「より多くのお金を」と考えるのは自然です。カネで考えるのは、貨幣経済に生きる私たちにかけられた呪縛のようなものです。それが普段はあまりにもうまくいき、簡単すぎるので、私たちは経済をほぼそういう考え方でしか捉えることができなくなっています。

けれど財政や社会保障といった、経済全体の、また長い時間に関わる問題について、合理的で望ましい答えを導くためには、何としてもその呪いを解かなければなりません。私たちの多くがその呪縛を振りほどくことが、この呪われた何十年から抜け出す唯一の道だろうと私は思っています。

やっぱ理屈っぽかったかな。まあ何か伝わるものがあれば。

(2023/11/28 てにをはの間違いを修正)

ありがとうございます。これからも役に立つノートを発信したいと思います。