見出し画像

Fukushima 50

先日、福島第一原子力発電所事故の復旧に命懸けで奮闘した50人のドキュメントを描いた「Fukushima 50」が地上波初公開された。封切りからわずか1年であるが、事故10周年に合わせて放送されたものだろう。
当時の故吉田所長の心境を聞き取り、門田隆将さんが「死の淵を見た男」というドキュメンタリー小説にまとめ上げた物語の映画化である。
内容は事実を元にしているだけに、緊張感と臨場感あふれるものであった。
しかし。。。
封切りを見た時にはさほど感じなかった違和感と不足感を今回は何点か感じてしまった。2回目だからか、自宅で寝っ転がりながら見ていたからかわからないが、うーん、という感じであった。
異論のある方もおられると思うが、とりあえずお読みいただきたい。

「熱」と「圧」

まずは全電源喪失し、いよいよベントするしかないという段階で、伊崎当直課長(佐藤浩市)が当直員を集め、手動でベント弁の開操作に向かう社員を募るシーンである。
ほとんどの運転員が「私が行きます」と手を挙げる。
「将来のある若い者はだめだ。ベテランのみでやる」
「自分も行く」
「伊崎さんにもしものことがあると誰が指揮をとるのか」と誰かが諫める。
この会話だけで、メルトダウンを起こしている原子炉建屋内に入り、ベント弁まで辿り着くことがどういうことかよく理解できる。
まさに「特攻隊」である。
みんな使命感に燃えた「熱い」運転員。。。

果たしてそうだったろうか?
ドキュメンタリーで、吉田証言に基づいているはずなので、そんなに脚色はないと信じるが、当事者の気持ちは果たしてそうだったのか?
私も原子力発電所の何たるかは、一般視聴者よりも少しはわかるので、この作業がどんなものか容易に想像はつく。まさに命懸け。
映画の通り、輪に入るものの、伊崎とはできるだけ目を合わさないように下を向いていた運転員がいなかったとしたら、彼らのパッションは「熱」ではなく「圧」だったように思う。
事故対策本部では、東京電力の社長以下お歴々、政府からは時の総理大臣や原子力安全委員。何よりもマスコミとその後ろで固唾を飲む国民。
この状態で「熱」だけで特攻に向かうだろうか?
本当の特攻隊員は「圧」を「熱」と感じるべし、という洗脳があった。
彼らにそんなものはない。突然降ってわいた厄災である。
行かないとは言わせない「圧」があったと思う。
事故対策本部の雰囲気だけでなく、地元への思い。家族への思い。会社への忠誠心。。。全て「圧」だったと思う。
このあたりがもう少し表現されていたらと思う。

「地震」と「津波」

発災当時から指摘されていた点であるが、福島第一原子力発電所は「地震」でやられたのか「津波」でやられたのか。
結果としてわかったのは、「津波」により電源関係機器がすべて水没し、全電源喪失に陥り、メルトダウンや水素爆発につながった。
では、震度6の「地震」には耐えたのか。
ベント弁がなかなか手動で開放できなかったのはなぜか。
耐えたとして、なぜ非常用発電機があのようなエレベーションの位置に設置されていたのか。
普通はこういう時のために別系統で入っているはずの所内用電源はどうなったのか。
いろいろな疑問が残っており、ヒューマンドキュメント映画ではあるが少しは解明して欲しかったと思う。
一般視聴者にとって、なんで発電所に電気が無いの?は純粋な疑問である。

「東電」と「政府」

東電社長をはじめ電力会社の幹部や関係者、総理大臣をはじめ政府・経産省関係者が現地事故対策本部やテレビ会議で吉田所長の判断に口を出し、ディスターブとしか思えないような指示を出すシーンが多数あった。
電力会社本社は各所への状況報告・プレス発表、政府や経産省は住民への避難指示など重要局面が訪れる可能性が高いためという建前はあるだろう。
映画では「船頭多くして船山に上る」感がよく表現されていた。
だがこれは映画だけの問題ではなく電力会社の企業体質である。
テレビ会議で本社が判断していたのは、本当の意味での事故収束だろうか?
現場の吉田所長は、地元や世間に迷惑かけないよう、職員の命を守るため、まごうことなく奔走しておられたと思う。
ただテレビ会議のむこう側は。。。
会社を守るためには。
メルトダウンという言葉を使わずに、あわよくば再稼働を。
とか吉田所長とは意の異なる言動を耳にしたことがある。

当日の「天声人語」の一部を引用させていただく。

福島の事故以降の出来事で見過ごせないものに、原発記念グッズの販売がある。2018年、東京電力が福島第一原発構内の写真をあしらったクリアファイルを作り、原発内のコンビニで売った。視察に来た人や廃炉に携わる人にむけた商品だった。それにしても加害企業が原発建屋の姿を記念品にするとは、批判が寄せられ、すぐに販売中止になった。
企業体質が心配になる話は、新潟の柏崎刈羽原発で社員が他人のIDカードを使って不正に中央制御室に入った問題で、報告書がまとまった。警備員たちは不審に思ったのにもかかわらず、制止しなかった。「厳格な警備業務を行い難い風土」というから理解に苦しむ。
東電は再稼働を求めるが、彼らに原発を担う資格があるのか。事故から10年の寒々とした風景だ。

この当事者意識のない、非常識で無神経な企業体質は東京電力に限ったことではなく、すべての電力会社、大同小異である。
脈絡からは難しかったとは思うが、少しは切り込んで頂きたかったテーマである。

最後に

古来より人間は自然の恩恵にあずかり、生きてきた。
日が落ちれば眠り、昇れば起きだし働く。自然が育んだ土に種を撒き、雨乞いをして食を満たす。この自然の摂理は神の領域である。
この神の領域に少しだけ足を踏み入れて、より利便性の高い生活を目指そうとするのが『科学技術』である。
神の領域に足を踏み入れようとするものは、他にも増して敬虔で謙虚であるべきである。誰しも神社に行けば、手を合わせるし、拝礼もする。
『科学技術』の中でも原子力などという、高度で危うい技術を扱おうという者は、特に修験者のような清廉さが求められる。
ましてや、権力欲、出世欲、支配欲、金銭欲、色欲などに駆られた人間が足を踏み入れようとすると、たちまち神の怒りに触れる。

原子力規制委員会がチェックするのは技術的対策だけである。
どんな人間が発電所を運営しているかについて、チェックする興味も権限もない。人々の記憶はたちまち減衰し、再稼働へと突き進むであろう。
その時、欲にまみれた者たちが、神の領域に踏み入ろうとするのを一体誰が止めるのか。


是非サポートをお願いします。小説の構想はまだまだありますので、ご購入いただいた費用は、リサーチや取材の経費に使わせていただきます。