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動物病院のカルテ 院長、お話があるのですけど…

「院長先生、お話があります」

院長先生にとって、これほど恐ろしい言葉はありません。
きっと世の中にいる数々の院長先生には、わかってもらえるのでしょうけど。
いや、もしかしたら中小企業の経営者にも、わかるかも知れません。
通常、この後に続く言葉はこうです。

「退職させて頂きたいのですが…」

(ある調べでは98%がこれたそうです)

多くの動物病院は、数人の従業員で経営されています。
そのため、一人でも退職者が出ると仕事が途端に大変になるのです。
それは普段、誰かが一日病欠しただけでも、おおわらわになる場合があることからも明らかです。
だから院長先生は従業員の退職には、いつでもヒヤヒヤしているのです。


そんなことは知らない、勤務医の羽尾先生。
三年間勤務をして、だいぶ病院の戦力となってきました。
しかし、仕事上でミスをしてしまい、それを院長に報告しなければなりません。
重い足取りで院長室の前まで来て、しばし逡巡したのちに、思い切ってノックをしました。
「どうぞ」
思いの外早い応答に、心拍数は上がります。
「失礼します」
羽尾先生の手には一本のコードが握られています。それを見られないように、後ろ手にドアを閉めました。
「院長先生、お話があるのですが」

「……、お前、まさか…」
院長先生のただならぬ様子に、ますます羽尾先生は萎縮します。
「辞めたい、とか言い出すんじゃないだろうな?」
「え?あ、いや、違います」
予想外の質問に、羽尾先生はとっさに答えました。
「あぁ、そうかぁ!」
良かったよ、お前死にそうな顔して言うんだもんな。
辞めるんじゃないんなら、何でもいいよ。
良かった、良かった!
「え…」
あまりの院長の喜びっぷりに、羽尾先生は本当にびっくりしました。
「で?どうしたの?」
勤務して以来初めて見るくらい、邪気のない院長先生の表情です。

羽尾先生の手には、先程不注意で犬に齧られて断線してしまった、超音波診断装置のコードが握られています。
その額、実におよそ100万円…。

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