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逆境によって見つけられた人生の意味。

※本原稿は、全国定時制通信制教育振興会発行『燦々の太陽を求めて第22集』に寄稿した原稿を著者が再編したものです


いじめと不登校を乗り越えて


「普通」というレールから外れはじめたのは、中学校一年の春。

小学校の頃から太っていて運動が苦手。内気で体も弱いという絵に描いたようないじめられっ子だった私は、小学6年の頃にクラスメイトからいじめを受けるようになった。

物を隠され悪口を言われるのは序の口で、思春期特有の繊細な人間関係も手伝い、いじめっ子以外のクラスメイトの大半も自らを守るように私を無視するという選択を総じて選んでいた。

小学時代は休みがちながらも、中学校で仕切り直せるという一縷の望みを信じてなんとか学校に通った。別にそんな保障なんてもちろんなかった訳だが。

中学校に入学後、最初のクラスでいじめっ子と同じクラスとなってしまったことで、その期待は早速裏切られた。

タイミング悪く入学式を終えて、新学期のはじめの数日休んでしまったことが引き金となり、因縁をつけられ再度いじめが始まった。それに同調するように、周囲の同級生たちも面倒なことには関わるまいと距離を取っていくのが分かった。

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この頃から徐々に学校を休みがちになった。
夜は元気だが、朝起きて登校準備をしようとするとお腹が痛くなる。

見かねた母はそんな私を車に乗せ、学校のすぐ近くまで送っていくものの、泣いて抵抗しそのまま家に戻ったことすらあった。

行きたくないという気持ちもあったが、この時、体が学校に行くことを拒んでいるようだった。

新しい環境というのはやはり最初が肝心であり、休んだことで数学や英語といった中学校から難しくなっていく教科にもついていけなくなってしまい、ついに引きこもりになってしまった。

1999年。当時中学1年生だったこの時、流行語大賞に「学級崩壊」がランクインするほど学校教育が荒れていた時代だそうだ。

不登校の生徒数は増加の一途をたどり、小中学校の30日以上の欠席者(病気怪我、経済的理由を除く)は13万人を超えた。私もそんな増えつつあった不登校生徒の一人だった。

子どもたちの数は減りつつあるのに不登校の割合は当時から減ることなく、増加傾向にあり、今では社会全体の問題となっている不登校。2017年にようやく教育機会確保法が制定され、背景にあった「学校に行けないことはダメなことで、クラスに復帰することがゴールである」という考え方を見直すことになったのは喜ばしいことである。

しかし、当時は不登校に対しての親世代の理解も今ほど寛容ではなかった時代だ。特に理解を示さない父からは夕食の度に「なぜ、学校にいけないのか?」と詰められ、心の弱さを指摘された。

母はそんな私を決して責めるようなことはなかったが、どう接したらよいか分からずかなりの心配を掛けたと思う。後々大人になってから聞いたが、思い詰めて色んな所に相談に行っていたそうだ。

家にいた当時の一日は朝、両親が出勤した後に起床し、用意してもらった朝食を食べ、見たいTV番組がなければゲームを一日中し深夜に寝るといった生活だった。

当時流行っていたスーパーファミコンやプレイステーション、セガサターンのソフトは一通りやった。特にドラゴンクエストやファイナルファンタジーシリーズは何度もクリアしやり込んだ。

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どのくらいやり込んだかというと、ドラクエ3では勇者と遊び人3名で冒険をスタートするぐらい。
(わかる人にしか分からないだろうが…)

家の中にいるだけなら苦痛を感じることもないが、この生活を楽しむためには、やはり定期的に外出しなければならないこともある。

Amazonのような便利なサービスがなかったため、新しいマンガやゲームを手に入れるためには外出しなければならなかった。

人目を気にして同級生たちから隠れるように週末に出かけていた。
別に悪いことをしていたわけではないが、同級生が学校で授業を受けている時間に外を出歩くことには、どこか後ろめたさを感じた。

見ず知らずの通行人の視線すらも気になることもあった。それはさながら指名手配犯になったような気持ちだった。

「なぜ自分だけが」と、やり場のない気持ちが、毎日のように押し寄せてくる。

普通に学校に通っていれば、部活や友達付き合い、きっと恋愛なんかもあっただろう。

同級生たちが着々と自分の人生を前に進めていくなかで、自分だけが取り残されたような感覚は不安と恐怖しかなかった

だからこそ現実逃避をするようにゲームやマンガにのめり込んだのだろう。
この時の気持ちを思い返すと、今まさに引きこもりで自分の中の葛藤と戦っている人の気持ちが、多少なりとも分かるつもりだ。

変化のない生活リズムが続くことで、現実逃避をしていても頭の中にいろんな言葉が浮かんでくる。それはもちろんネガティブな言葉ばかり。

「先生が悪い。親が悪い。クラスメイトやいじめっ子が悪い。どうせ生きていたってつまらない。もし自殺して呪い殺せるならあいつらを道連れにしてやる。」

そんなことを考えても実際に行動に移す度胸などもなく、落ち込んだ気持ちの気晴らしにゲームやマンガ、ということをぐるぐると繰り返す。

そんな生活が一年近く経った時、転機があった。

母がフリースクールのパンフレットを学校でもらってきた。

気持ちのグラフが降下している時は何を言われても響かないが、上昇している時にはふとしたきっかけで心境は変わるもの。人には気持ちのバイオリズムがあると思う。

「もしかしたら一生このままかもしれない」そんな漠然とした危機感を抱いていた時であり、まさにグラフが上昇していたタイミングであった。

母からの「見学だけでも行ってみない?」という誘いを口実に、一年ぶりに同年代の子どもたちがいる環境に行った。今思えば、自分でも不思議なくらいだ。スクールの生徒達が帰宅した夕方を見計らって見学に行った。

そこで先生方に施設を紹介してもらって、お茶を飲みながら話を聴いてもらった。

この時のことは詳しく覚えていないが、「自分でも行けるかもしれない」という思いと同時に、「この大人たちは信用できるかもしれない」そう感じたのだと思う。

容赦ない言葉を浴びせてくる父親。
事務的にプリントを家に持ってきて、給食費の扱いをどうするかという担任。
大人という存在に心を許せなかったが、フリースクールの先生たちは自分が知っている大人とは違った。

この出会いが私の大きな転機となったのは言うまでもない。

当時中学2年の私よりも幼い児童生徒たちが集まっていた教室には、同じようにいじめを受けた子だけでなく、親からネグレクトを受けていたような子や、発達障害の気がある子もいたと思う。

見学をきっかけに翌日からすぐ通うことを決めた。

フリースクールが救いとなったのは、自分も含めて多様な子ども達とそうした背景を、ありのまま受け入れてくれる職員の存在が大きかった。

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※フリースクール当時の写真(遠足旅行)

腫れ物に触ることもなく、しかし放任的でなんでも許すわけでもない。時には叱ってくれたし、命令口調ではなく「こうしてみない?」「私は○○してくれたら嬉しいな」と、こちらの主体性を尊重しながら要望を伝えてくた。数名いた職員の方々はみな個性的で、素晴らしい先生方だった。

教室では他の子ども達よりも相対的に学年も上だったこともあり、下級生たちの面倒を見るような中心的な存在として過ごした。子どもたちだけでなく、先生たちからも頼られたという経験が今の自己肯定感の核を育んでくれた。

フリースクールで過ごした2年間は、マイペースに学びながらも異学年の友人らと様々な遊びをした。

フリースクールの2Fには畳の敷かれたリビングルームがあり、そこにはTVがあったので、皆でゲーム機を持ち込んでゲーム大会もよくやった。
小学生の子どもたちと真剣にやったら続かないので、手加減やハンデなんかも工夫した。今となって感じるのは、社会性や多様性は、手段は別としてもこういう異年齢で多様な仲間のなかに身を置くことで培われるものだ

中学校で勉強をまともにしてこなかった私も、受験を考える時期になった。

当時は興味のあった料理の道を目指すために調理師専門学校も考えたが、まず高校には行ってからでも遅くないというフリースクールの先生方の意見もあり、高校受験を決めた。志望校は定時制課程の高等学校。

1年弱しかなかったので、国語・英語・数学を中心に出来るところまでやろうというスケジュールを先生方に立ててもらった。

国語や英語はフリースクールの先生に見てもらっていたが、数学は中学校の相談室の先生に見てもらった。中学3年の後半になり、最後まで教室には行かなかったが中学校の保健室や相談室には週1で通えるようになった。

この勢いも手伝い、中学の先生方のサポートもあり修学旅行に行くことが出来たことも当時のちょっとした成功体験だった。

受験に無事に合格し、進学することができたのは間違いなく周囲の協力のお陰だ。

高校生となった私は、これまでの学校生活の思い出を取り戻し、自分の人生を一気に前に進めるかのように、アルバイトや生徒会活動、部活動などに精力的に取り組んだ。

交友関係も広がり、ベタな青春マンガのようだが隣の席の子に恋をした。

ちなみにその子が痩せている子が好みという情報を励みに、体重を10か月で25キロ減らすという番組にも出られるような大変身も遂げることができた。(恋の末路については想像にお任せしておくことにする)

高校生活にも慣れた頃、ボランティアでフリースクールには時々顔を出していた。この頃、臨床心理士の資格を持つスクールカウンセラーの先生に進路相談をしたことで心理学に関心を持つことにつながった。

当時はその先生がどんな役割の人かも分からなかったし、相談室に置いてあった箱に入れられた砂場と人形を大事に扱う変わった人と思っていたくらいだ。(これは心理学でいうところの箱庭療法の道具だった)

この先生との出会いがなければ、恐らく心理学に興味を持つことはなかっただろう。書店で心理学入門などの本も買って読み、その興味はますます強くなっていった。

高校2年で進路を真剣に考えなければならない頃には、将来心理学を学び、自分の過去の体験を活かして同じように辛い環境に置かれた子ども達を支えるような仕事をしたい。そう志すようになり、大学進学を考えるようになった。

この進路選択のタイミングで、大きな転機が訪れたことが、その後の生き方にも大きな影響を与えることとなった。


「現実」を覆すために戦った日々


私は物心ついてから父に遊んでもらった記憶が殆どない

酒と煙草を好み、趣味はギャンブル。短気。背中を見ていて別に遊んでもらいたいという感情も湧かなかったのだが。

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競馬新聞や週刊誌を読んでいるが、まともな本を読んでいる姿は見たこともないし、人混みが嫌いで連休に行楽地に連れて行ってもらったことも数えるくらい。そもそも記憶も薄い。

家にいるときは酒を飲み寝てばかりで、気まぐれでたまに家事を手伝うくらいで感謝の言葉を母親にかけているところなどある訳もなかった。喧嘩っ早くて昔気質。職人気質の設備士の親父だった。

よく聞く、家族の誕生日会などの文化や、子供の日、クリスマスといった日本に根付いている習わしも我が家にはなかった。いや、正確に言うとそこに親父の存在や介入がなかった。

それが一般的ではないということを知るようになったのはある程度大人になってからだったので、特に羨ましいという感情はなかった。

私と5つ離れた弟を放って毎週末のように競馬やパチンコに興じていた親父は、その裏で母に黙って借金をつくっていた。給料日には手渡しでもらった給料をパチンコにつぎ込み、足りなくなった時には消費者金融から借りるということを長年繰り返していた。給与明細は見せたことがなかったらしい。そんな借金もいつまでも隠しておくことは出来なかった。

母もそんな状況を知らず、パートで働き家計を支えていたが小学生と高校生の子ども二人を育てていると何かと物入りになることも多かったのだろう、足りない生活費を工面するために父に黙ってカードローンやキャッシングをしていたらしい。多重債務というやつだ。

大人になって振り返ってみて分かったのだが、我が家はどうやら貧困家庭というものだった。正確に覚えてはいないが、隠し合っていた両親の借金の総額は1000万を超えていた。

進路について真剣に考えはじめていた高校2年生が、この話を打ち明けられた当時の心境を想像できるだろうか。そして、次いで出た言葉は「学費は出せないから進学は諦めてほしい」だ。

当時は消費者金融の取り立てもひどく、返済の催促が毎日のように電話や書類が届きポストがいっぱいになった。頻繁に親の代わりに電話に出ては、「父はいない」と居留守を使わされた。

高校生ながらなんとかこの現実に抗おうと、フリースクールの先生に相談した際に教えてもらった、自治体が設けている司法書士の無料相談に諦めかけていた両親を連れて行ったりもした。

このアポイントは自分がとったのだが、電話を掛けるときの緊迫感と心臓のドキドキは鮮明に覚えている。電話に出てくれた方も当たり前だが驚いていたようだった。

返済目途の立たない親父は、最終的に自己破産という選択を選ぶしかなかったようだ。生まれて初めて親と本気で対等に物を言って喧嘩をした。

短気ですぐに物に当たり、壁を殴って穴を開けるような親父は、幼いころは恐怖の象徴でしかなかった。従うしかなかった親父に対し、高校生となって本気で怒ったのを覚えている。

資産を差し押さえられたことで、18年間住んでいた生家を売却することになった。親父名義の車も手放した。やはり高校生の子どもに出来ることなど限られていた。

恐らく多くの若者が挫折するに違いないが、この時志を曲げることはなかった。

それは酒癖の悪い父の姿に対して感じていた思いがあったからではないかと思う。借金に追われことが重なるようになり、酔った親父は「俺は大学に行かなかったが、勉強すれば何者にもなることができた」「あの時こうしていれば、今頃こんなことにはなっていない」酔って毎晩のように醜態を晒した。

母に愚痴をこぼす父の姿に軽蔑を覚えると同時に、心の底から将来こんな大人にはなりたくないという思いを抱かせた。

私にとって父は優秀な反面教師以外の何者でもない。

この時の決意したことは、煙草を吸わないこと、ギャンブルをしないこと、女性(特にパートナー)を大事にすること、そして教養と学び続けることの大切さだった。これは30歳を過ぎた今も変わっていない。

大学進学を諦めることは目標を失うだけでなく、この父と同類になる。そう考えたことが私を奮起させる原動力になった。

進学費用を貯めるため、高校の卒業年次を4年卒に変えて、毎月アルバイトに勤しんだ。この時、単位制の定時制高校でなければこんな選択は出来なかっただろう。

決意をする前は社会勉強とおこずかい稼ぎ程度にコンビニでのアルバイトを経験していたが、決意してからは地元に新しくできた大型スーパーの青果コーナーで働いた。理由は単純に周りより時給が良かったから。お盆もGWも正月もアルバイトに明け暮れた。18歳を迎えてからは高校時代に2回、職場で年を越すこともあった。

そんな状況にあったにも関わらず、両親からは無情にも生活費や返済の無心があった。進学費用を貯めているのは知っているにも関わらずにだ。

母のローン返済、父の清算されなかった借金もあったらしい。
母方の親戚にも頼みこんでかなり借りていたそうだ。

貯金を10万貸しては5万返ってくるといったことを繰り返す。親父はストレスからさらに酒や煙草が激しくなった。

心を入れ替えて真面目に頑張ろう・努力をしようという両親だったら私の20代の価値観もまた変わっていたかもしれないが、当の両親は毎晩のようにノートにメモを取り、ロト6を当てるため熱心に研究をしていた。

一攫千金をねらっていたのだろうが、無論そうした人たちに大金が当たる訳もない。ただただ、そんな両親が情けなかった。

家庭がどんな状況であっても、大学に行くために働いているのだから、学業を疎かにしてしまっては本末転倒。前日にバイトが遅くなり、どんなに眠くても、気持ちがくじけそうでも学校には通った。

アルバイトをしながら勉強に生徒会、部活動も両立させるためにすべてを必死にこなした。そのかいあって生徒会長や美術部長なども担当し、アルバイト先でも高校生には任せないような責任ある仕事を任されるようになった。

友人や高校の先生にも相談できなかった。話したところで相手に気を遣うことは感じていたし、何より話したことで問題が解決することなどないと分かっていたからだ。

ただ一つの希望である目標を叶えるために、孤軍奮闘の日々を乗り越えた結果、卒業時になんとか2年間で120万貯めることができ、無事県外の大学にも推薦で合格し進学を実現することができた。

大学の学費の初年度納入金、引っ越しと一人暮らしの初期費用をアルバイトで捻出し、文字通り親からは一銭ももらわず進学したこと。

4年間の高校生活で皆勤賞を取り、生徒会長や美術部長を経験して卒業できたことは、人生の中でも指折りの成功体験と誇りとなった。


貪欲に学んだ大学時代、逆境の支えになったもの

大学進学を機に一人暮らしをはじめた。自分に対して甘えていた親から離れたい気持ちもあった。自分が傍にいては自立できないと逆に思っていたくらい当時の私は自立心に満ち溢れていた

大学に入り学びたかったものが念願叶って学べることが、これほど楽しいものなのかと感じた。高校の授業とは全然違ったが、新鮮でどの授業も熱心に参加した。学べることは当たり前のことではない。自分の力で掴んだものだからこそ、その感動は大きい。

自分で貯めた学費に加え、奨学金を借りて生計を立てていた
貸与型奨学金は、将来の自分の給料の前借り
だ。

今返済を行っているが、過去の自分に送る気持ちでいるし、そういう気持ちでいかないと恐らく学校生活は無駄になると考えている

だからこそ、大学生は学ばなければ損だ。心理学以外にも片っ端から興味のある教養科目の単位取った。いくつ受講しても学費な同じだなんてなんとお得なのだろう、そんな風に考えている変わり者として恐らく浮いていたと思う。

教育に関心もあったので2年からは教職課程も取った。こんな思いをもって学んでいる学生など、少子化で大学全入時代となったこのご時世では一握りではないだろうか。

他者との意識の差から気を許せる友人は少なかったが、こうした経験が他者に流されずに自分を律する大切さを学ぶきっかけになったのは間違いない。

たとえ少数派になろうとも、自分の信念に基づき恐れることなく行動することの大切さだ。

若さもあったが、平気で出席を取ってから講義室を出ていったり、代返してもらって出席数を稼いでいる同級生たちに憤りを感じるようなキャラだった私は、当時の友人曰く何やらツンツンしていたそうだ。

入学当時から「温室育ちの奴らに負けていられるか」なんて考えていたら、大抵は友達なんてできる訳がない。後悔はしていないし、これは然るべき代償だったのかもしれない。

高校時代と同様にアルバイトをしながら学業や委員会活動に励み、目が回るほど忙しくも充実した日々を送った。

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努力の甲斐もあり、大学からの給付奨学金も受けることもでき、無事に大学3年生を迎えることができた。

3年生といえば卒業後の進路を考える就職活動の時期。最近ではどの企業も人手不足で大学生の就職活動は売り手市場と言われているが、私たちの時代は記憶にもまだ新しい世界的な金融危機「リーマン・ショック」が起こった。

先輩たちの内定取り消しが起こり、就職活動にも誰もが苦戦を強いられた。
同級生たちも不安になりながら就職活動をしていたが、この時支えになったのは、まさに自分がこれまで積み重ねてきた経験に基づく「根拠のない自信」だった。

”あの時の苦労や辛さに比べたら、これ位乗り越えられるはずだ。”

そういった気持ちの下で面接に臨み、企業から内定を得ることができたのは大きかった。

教員という道も考え教職教育実習にも行ったが、将来教育者への道を進む前に、人間として社会で経験を積みたいと考え、内定を貰った会社のうちの一社に入社を決めた。

大学時代を振り返れば、自分の人間的な成長を感じる4年間だった。

学びたいと思って大学に入り、他に流されることなく初志貫徹で心理学や教育を学ぶことができたし、奨学金の不足分を補うためにアルバイトをしながらも学業を両立させ、親から一切援助を受けることなく自活することもできた。

高校時代に芽生えた自立心は、結果が伴ったことで大きな強さと自信になった。

しかし、いまあの頃の自分を見ると些か強すぎたと思う。
心理学を学んだにも関わらず、人の持つ弱さや不完全さへの寄り添いや理解が足りなかったのではないだろうか。

自分の弱さを出すことや、弱さを認めることは悪いことではないこと。
自分のためではなく、相手のためにも頼ることが時として必要なこと。
助け合うことが人との絆には必要であること
は、もう少し大人になってから学ぶこととなる。

そういう意味でも、すぐに教育や心理の道に行かなくて正解であった。
遠回りによってより成長を重ねたからこそ、いまこの道に立てる自信にもつながっている。

ちなみに、大学生時代は家族とはほとんど連絡を取らなかったのだが、縁を切ってもいいと思える出来事が起こったからだ。

生活費が足りないと母からお金を無心されたこともあったが、それが原因ではない。

ある日、バイト中に身に覚えのない番号から引っ切り無し電話がかかってきて気になって仕事を抜けさせてもらって電話に出たのだが、消費者金融からの取り立ての電話だった。

自己破産をしたにも関わらず、親父がヤミ金で再度借金を作ったらしい。
もちろん、普通に借りることはできないので、契約のために私の連絡先等の個人情報を売ったのだ。

この時の思いは、まさに堪忍袋の緒が切れたという表現が相応しい。

すぐさま電話をした。
「お前なら着信拒否なりして、なんとかするだろうと思って」
悪びれることなく、電話越しに親父はそんな言葉を発した。

これまで募ってきた、親父への憤りや憎しみが爆発した瞬間だった

「援助してくれなくたって一向に構わないが、自分の人生の足枷にだけはならないでくれ。もう一切関わらないでくれ」と伝え電話を切った。

言うなれば逆勘当だ。

2016年に親父が癌で亡くなる直前まで、それ以降はまともに話をしたことはなかった。親父には色々と言いたいこともあったが、後悔はしていない。

孝行したいと思える親がいることは当たり前ではない

私からすれば、それだけで幸せなことだ。

命の時間の使い方に気づいた震災体験、そして独立へ

新卒で外食チェーン企業の正社員となり、仙台が勤務地となった。

アルバイト時代よりも当然求められる水準も高く、調理接客、店舗管理やスタッフのトレーニングなど覚えなければならないことは山ほどあり、がむしゃらに働いた。

休みも少なく、アルバイトから休日に電話が掛かってくるから気が気ではなかった。経験年数も大学生アルバイトやフリーターの方が長く、プレッシャーもあった。この時はとにかく任された仕事を全うしようとする責任感だけが突き動かしていたと思う。

あれだけの思いをして進学し、学んでいた学生時代の志も俄かに薄れかけていた社会人2年目の2011年3月11日。仙台駅の店舗で勤務中に東日本大震災が発生した

余震に怯えながらスタッフと停電して真っ暗となった街中を歩いて帰り、自宅に戻って車に乗り込み、カーナビをつけると火の海になった気仙沼の様子が映し出された。

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ラジオからは数百体の遺体が近くの浜に打ち上げられたという耳を疑う情報が流れてくる。

日本はどうなってしまうのだろうか。自分たちは生きられるのだろうか

まさに茫然自失の状態となったこの時の情景は一生忘れることはない。

それから一週間ほどライフラインが止まった状況のなかで生活を送る。3月の極寒の中、水で頭を洗ったり、食料を求めてコンビニに30分並んだり、非日常的な生活を送った。

正社員ということもあり、避難所ではなく数日後からは仙台市の中心地にある会社の事務所に呼ばれていくことになった。

各店の情報収集をしたり、交通機関が復旧していない区間も多かったので、自転車に乗って復旧のために電気が通っていない店舗の片づけにも向かった。

徐々に被害状況が明らかになっていくにつれ、テレビで亡くなった大勢の方の名前が挙げられていく中で、店舗のスタッフとその家族が含まれていることが判明した。

人はいつ死ぬか分からないということは誰もが理解しているだろう。

しかし私たちは明日も当たり前のように生きられると思って生活をしている

それは矛盾といえるかもしれない。

自分の命の終わりを感じた時や、身近な人の命が途絶える瞬間になるとこの矛盾に気が付く。

そう、残された命の時間の使い方というものを意識するはずだ。

近しい人の死を前にし、何のためにこれまで生きてきたのかを問い直したことが、人生のターニングポイントになった

悩んだ挙句、やはりこれまでの経験を他者のために役立てる生き方をしたいという思いが底にあった。今の仕事で実現が難しいと考え、転職を決めた。

震災が落ち着いた後に仕事をしながら転職活動をはじめ、縁あって㈱リクルートへ入社することができた。

小学校でいじめられ、中学校不登校を経験し、定時制高校出身者であったあの自分が、大企業であるリクルートに入れたこと自体も嘘のような話だが、入った後の方が大変だったのは言うまでもないだろう。

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周囲は名だたる有名大学出身者や外資系経験者など優秀な人の巣窟だった。

社長も部長もマネージャーも「さん」づけで呼ぶ個の尊重を重んじる文化。

「自ら機会をつくり出し、機会によって自らを変えよ」という創業者の精神。

そして圧倒的当事者意識

馴染むのに時間はかからなかったが、いい意味でカルチャーショックだった。

かたや自分は飲食店経験しかなく、営業なんてやったこともない。ビジネススキルや業界知識なんていうのも皆無。普通にやっているだけではついていけないと思った。

そんな環境のなかで考えたこと。それは自分が出来ることやアピール出来ることは、人と違う経験と、行動によって積み重ねられてきた自己肯定感に基づく「根拠のない自信」が背中を押してくれた。

仕事は想像以上に忙しかったが、入社して直ぐに一県を担当し、やりがいある仕事に多数関わらせてもらうことができた。

また、その傍ら東北各地で若者支援や地域の活性化に関わった。これまで学んできたことや、乗り越えてきた体験によって得られたものを若者たちに伝えていきたいという思いもあったからだ。

被災地の復興や若者のキャリア支援に関する活動にも関わるようになり、仕事で身につけたビジネススキルや知識がこうした活動に活かせることにも気がついた。

今ほどパラレルキャリアという言葉使われることがなかった時代ではあったが、肩書きに捉われた会社員という意識ではなく、一人の人間としてフラットに様々な活動に参加し、サードプレイスと呼ばれる第三の居場所も得た

リクルートという会社の中には優秀な人は沢山いて、それも大きな刺激になった。しかし、会社の中にいるだけでは出会うことのなかった世界や新しい価値観にも、こうした活動によって気づくことができた。

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※大学生を連れて実施したフィールドワーク

会社員としていくつかのプロジェクトを成し遂げたり、地域での活動でも役割を得て、行動に実績が伴ったことで遂に「根拠のある自信」が持てるようになった2016年。30歳を目前にしたタイミングで、4年半の経験を経て一念発起し独立を決断した。

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今の仕事とこれまでの人生を踏まえて伝えたいこと


現在、人材育成や教育、組織活性の企画や地域振興に関するコンサルティングを担う事業を営み、新潟を拠点に各地で活動をしている。

その礎にあるのは、過去に学んできたものやここまで綴ってきた経験で身につけてきたものだ。そしてこうした生き方をしてきたことから、有難いことに時々学校で講演をさせてもらうことがある。

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その際、話を聴いて下さった方から「それだけの経験をしているのに、なぜ折れなかったのか」と尋ねられることがある。

客観的に見ると自分でも不思議に思うことがあるのだが、そこでこんな話をしている。

人生で起こる苦難は、すべてその人が乗り越えられるものしか起こり得ないのではないだろうか。

だとしたら、その苦難によって得られたものには何か意味があるのかもしれない、と。

人生に意味などないという考え方もあるだろうが、私はこれまでの経験のすべてには、何か意味があると思っている。

この逆境の物語は、変化が激しく先の見えない社会を生きていくこれからの若者たちの背中を押せるのではないかと思い、活動を続けてきた。

これをいま読んでいるあなたは、どのように感じてくれただろうか。


最後に、今の生き方に悩んでいたり、苦しんでいる方が読んでくれているかもしれないので、拙いがメッセージを伝えて終わりにしたい。

あなたのその経験にも、きっと何かの意味があると思う。

どのように意味づけるかは自分次第だが、その捉え方によってはあなたの人生の意味になるかもしれない

まだ見つかっていない人がその意味を見つけるためには、多少時間がかかるかもしれないし、遠回りが必要なこともあるだろうがどうか悲観しないでほしい。

社会の良し悪しは誰かに決められるのではなく、あなたの捉え方次第でいかようにも変わるのだから。

そして、あなたの苦しみは、未来の誰かの幸せの役に立てられるかもしれないということを、どうか忘れないでほしい。

あなたの乗り越えてきた逆境が、あなたの人生をより豊かなものにし、周囲の人を支える力となることを願っている。

数多あるnoteのなか、お読みいただきありがとうございました。いただいたご支援を糧に、皆さんの生き方や働き方を見直すヒントになるような記事を書いていきたいと思います。