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ファンには正邪も優劣もない

・・・というお話をするわけですが、その前に大前提がありまして。

法律・条例・規則を遵守し、他のファンに極力迷惑をかけない

それもそうですよね。当然だと思います。

さて、その上で・・・

ファンには正邪も優劣もない

というお話。一つの対象、例えばそれをスポーツチームでも良いですし、選手個人でも構いません。あるいは、アイドルユニットやバンドでも、そのメンバー個々でも構いません。あるいは、複数人からなるお笑いグループ(あるいはコンビ)でもいいし、その一部でも良いです。

今、あなたは、この対象(ここでは仮にそれをAというプロスポーツチームとさせてください)について、応援あるいは支援しようとしています。

しかし、そのようにしようとしている人は、あなただけではないとします。他の多くの人が同じように考えて、その対象を応援若しくは支援しようと考え、行為の実践をしようとしています。あなたには同様にこの対象を応援または支援する同志ができましたが、彼らの採ろうとしている方法論は、必ずしも一致しません。以下の例が考えられます。列記したのは、あくまでも一例だとお思いください。全てではありません。

1:このチームのあらゆる試合を観に行って応援行為をする
2:頻度は少ないものの試合は観に行く。応援行為は参加する場合もしない場合もある
3:試合を観に行くが応援行為は行わずグッズ購入や大人しく観戦だけする
4:試合全体の写真撮影のみを行う
5:試合全体の写真を撮り、SNSやブログなどに投稿する
6:特定選手のみ目当てに(ルールに抵触しない範囲で)写真を撮ったり接触したりして、SNSやブログなどに投稿する
7:事情があり会場には高頻度で行けないが応援・支援の意思は表示する

あなたが上記7タイプのうちのどのタイプでも構いませんし、上記7タイプに当てはまらないとしても何ら悪いことはありません。ここではそんなことを問うているわけではありません。最初にも言ったように「法律・条例・規則を遵守し、他のファンに極力迷惑をかけない」のであれば、立派にファンの仲間入りです。

ここで問題にしたいのはそういうことではなく、むしろ「ファン同士がいがみ合う、あるいは諍いを起こす」ことについてです。

例えば、上記1の種類のファンが、3の種類のファンを咎め立てする権利が何処にあるのか、と。
3の彼らは1の人々がする応援行為を妨害しようとなどせず、3の彼らの好きなように試合を見たいだけなのです。そこに、1の人々が「3の連中は応援に加わらない!」という文句を言う筋合いはありません。

あるいは、写真派の人々だって4~6までいくつかのタイプに分類できそうですが、どのタイプにしろ「ルールをキチンと守っている」という前提があるのなら、他者から批判されるいわれもありませんし、内部で批判し合う理由もありません

ただ、試合会場に来るこれらの人々はともかく。問題は、諸事情があって会場においそれとは来られない人々(例えば、俺のようにちょいとよろしくない病気をしているので、なかなか遠路まで足を運べなかったりする場合などが該当します)に対して、1~6の会場に頻繁に行くような人々が、7のように試合会場や練習見学、イベントなどに参加する機会が少ない人々に文句を言い募る権利など断じてない、ということを、理解していない人々がいるんじゃないか、ということです。
それらの人々が、無根拠な誹謗中傷を行っているとかならまだともかく、そうではない客観的な意見の表明を行っているのに、必要以上にああだこうだと言い募る権利は本当にあるのでしょうか?

ファン同士のいがみ合いに何の利があろうや?

多様性を認め合って共存しよう」というフレーズをいろんな局面でよく耳目にします。人種でも職業でもどんな局面に於いても、差別がキーワードになると概ねセットのように語られる理念ですよね。

しかし、たかだかそういうファン同士の界隈ですら、こういう理念が置き去りにされて、差別構造が浮き彫りとなる場合があります。

対象に対する応援や支援の在り方はファンが何人もいれば1人1人違って当たり前です。ファンの中にも温度差というものはあり、熱烈な応援・支援をする人もいれば、やや冷めたように見える応援・支援で留める人もいる。人が1人1人違うように千差万別なのですよ。それを否定することは誰にもできません

「自分はこうなのだから君もこうあるべきだ!」という同調圧力が、何の利を生むと思いますか?

それが高じて「俺のやり方に同調しないあいつは正調のファンじゃない!」などというバカなことを言い出すのが出てくるわけです。
それについては「それって結局あなたの考え方にしか過ぎません」としか言いようがありません。そう思う人もいるだろうけど、そう思わない人もいますよ、という話ですね。

いや、思うのは自由なんですよ。思うだけならね。例えば、会社帰りに上司不在の酒の席で、誰かが「A(上司)のヤツ、今日あんなことで癇癪起こしやがって!」と憤慨するのは自由なのですが、それを後日A氏にご注進したり、対外的に広めちゃうのはよろしくありませんよね。その結果、当該セクション内での意思の疎通に問題が生じたりするなどして、職務に支障が出てしまったら、誰が責任を取るのですか?
こういう事態をなるべく起こさないために、例えばA氏がパワハラ上司などでないのなら、A氏を交えてセクション内で何度か話し合いを持っても良いでしょう。
問題を共有して平和裏に解決する方向性を模索してみたいものです。そうすることで、セクションの居心地が改善できるのであれば、した方が良いと思うのです。

一番怖いのは、一方向からの議論による一方向からの結論に帰結してしまうことだと思いますよ。何故って、それが是とされることで、結果としてその集団の敷居が高くなってしまうのだから。
その集団内だけで物事が完結する分には良いでしょうよ。でも、その集団だって規模を拡充する必要も出てくるだろうし、様々な事態が考えられますよね。その時に徒に敷居が高かったりすると、参加してくれる人がたくさん出てきてくれると思いますか?
たぶん、いないと思いますよ。残念ながらそういうものだと思います。

戦術君

俗に「原理主義」というものがあります。最近はあまり良い意味でこの語を使用する事例を知らないのですが、「〇〇の考え方は正しい!故に我がチームのファンは〇〇のような考え方で存在し、行動するべきだ!」みたいなのを見てしまうと、「ああ、あそこに属するのも楽じゃないんだろうなあ」などと思ってしまうのです。

で、なくて。「我々は〇〇の考え方を支持するけれど、××の考え方もそれはそれであって良い。世間は広いのだから、ルール違反でさえなければ考え方もたくさんあって良い」だと思うんですよ。

違う考え方を頭ごなしに否定するのではなく、それはそれとして存在を認めること自体は、何ら問題ではありません。

極端な例ですが、X主義というイデオロギーそのものの存在は認めて然るべきだと思うのですよ。但し、その運用者としてのY党がその時々の法律や規制の下で何らかのルール違反をしていたら、それは批判されるべきです。X主義が掲げる理念自体は、他のイデオロギーの下でも援用できるものもあるかもしれないでしょう?
是々非々なんですよ。存在を認めた上で、評価できる面はすれば良いし、できない面はしなくて良い。相手にする必要がなければ、そこでお終いでも何ら問題ありません。大事なのは、ただ「存在を認めること」だけだという話です。

このイデオロギーの話そのものはさておいて、同じ方向を向いているのに、自分の主義主張とは異なるスタンスでいる人々を、明らかなルール違反などがないにもかかわらず、必要以上に敵対視するのは、よろしくないことだと思うのです。

応援する人々の多様性を考える時、上の動画にもある、かつてベガルタ仙台にいた有名サポーター「戦術君」を思い出します。この動画の後半部分にも出てくるように、彼はこんなことを考えていました。

「2+2=4、2×2=4。方法は違っていても、最後にそこに行き着けば良い」と。

何度も繰り返し書きますが、応援する人の考え方も一通りではありません。仮に基本的な考え方がそうであったとしても、細かく分けたらいくつもの違いがあるんじゃないでしょうか

ならば、その違いを認めて、緩く連帯すれば良い、と以前からずっと思ってきています。別に違う考え方があったって、応援活動が全くできなくなるわけじゃありませんし、支障も出ません。千差万別、大いに結構です。

悪いと思っているなら、それは何がいけないのかを、然るべき根拠と共にハッキリさせるべきです。

純化するというのは、ある集団の結束を強めることには役立ちますが、それが行き過ぎた時、修正が利かないという問題があるように思うのです。

ならば、方法の違いはそれとして認めれば良いじゃないですか。最終的に行き着く先が対象の繁栄だったら良いのでしょう?

戦術君の言葉を今の人々はどう受け止めるのかはわかりません。異論も反論もあるかもしれません。だけど、俺としては初めてこの動画を見た時からずっと、彼の言いたいことを自分なりに考えて採り入れてきたつもりです。

だからこそ、共通のものを応援する人々がいがみ合うことがないように、という願いを込めてこの戦術君の動画をご紹介したわけです。そこだけはご理解ください。

結びに

もちろん、このnoteに記載した内容に異論があっても全然構いません。俺だって、今ここに展開している論が100%正しいなどというおこがましいことは露ほども思っていません

同一の目的に向かって行動している人々が個々に持つ目的に対する考え方には、人によって大なり小なり相違点があります。もちろん、同じ人もいるでしょうが、そうでない人もいると思います。
それらの違いを認めることは、決して難しいことではありません。違いを受け入れて同化しろという意味ではありませんよ。違いの存在を認識しておけばいい、というだけのことです。確かに異なる主義の存在を認めることはつらいことだと思う人もいるかもしれませんね。でも、存在を認めるだけで、同意までは誰も求めていません

例えば、お昼ご飯や晩ご飯だってそうでしょう。ラーメンが好きな人もいれば、カレーライスが好きな人も、チャーハンが好きな人もいるし、スパゲティが好きな人、ハンバーグライスが好きな人、カツ丼が好きな人も牛丼が好きな人、焼き魚定食が好きな人とか、いろいろいるでしょう。
でも、それぞれの好みがあって当たり前で、別にそれらが違っても悪いことじゃないんですよ。ラーメンが好きでないヤツは邪道とか、カレーライスを食べないヤツはおかしいとか、そんなもん、その人だけの意見であって、別の人にとってそうじゃないんですよ。それだけのことです。

繰り返しますが、明らかにルール違反だったり、法律・条例・その他規則違反でないならば、異なる考え方に同意しなくても良いので、その存在ぐらい認めてみませんか?

認めるだけでも、その後の心持ちはかなり違うはずですよ。そのためにも、今よりほんの一歩だけ、踏み出してみればいいだけの話です。そして、それはちょっとしたことから始めることが可能です。

ほんの一歩だけ、踏み出してみませんか?

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。