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おじさんはふと考える

しばしば、おじさんの戯れ言にお付き合い願いたい。


若い人たちみたいに弾けられない。

病気もしたし、年も食った。可動範囲も狭まった。

まあ、しょぼくれてみたところで何も解決しないのだけど、だからって無理矢理アクティブになりたいとも思わない。

Twitterにしろ、このnoteにしろそうだけど、自分が基本的に何かを書く時は「高説を垂れる」ようなつもりは一切なく、「馬鹿が口にする独り言」のつもりでいる。

自分はそれしか書けない。これまでも、これからも、それしか、自分のキャパシティにはない。

偉そうに何かを訓示する、みたいなことは自分が最も苦手とすることだ。ガラでもないしね。


正直なところ、書くのは好きだし楽しい面もあるけど、原則的にはやっぱり苦しいと思うし、書くことそのものが出てこないと、どうしても張り合いに欠けてしまう。

こんな野良が何か書くってことは、それだけ表現が研ぎ澄まされてないと、誰からも相手にしてもらえない。

世の中には、研ぎ澄まされたフレッシュな感性を持つ若い連中が掃いて捨てるほどいる。

自分みたいな、無駄に時間だけ積み重ねただけで、何も示せないおっさんの出番ではない。本来はね。

ただ、こんなおっさんにも何かがあるんじゃないか、と思ってくれる人らのためには、何かを書いていきたい。

欲得とか、そんなものはもう今の自分にはあまり必要ない。そもそもいつまで生きられるかわかりもしない。
自分が罹ってしまった脳梗塞だって三度目が起きれば今みたいにちゃらんぽらんできるとも限らないだろうし。もう二度目が起きてからそろそろ5年になる。いろいろ備えておくべきかもしれない。

だからって、別に同情もしてほしくない。自分は自分の生きたいように生きるし、書きたいことを書く。
それがサッカーに絡むことだったり、音楽に絡むことだったり、他のことかもしれないけれど、ともかく頭と身体とが働いてくれてる間は何かを書くと思う。

自分が文章を完全に書けなくなった時、「ああ、あのおっさん、とうとうくたばりやがった」ぐらいに思っといてもらえれば良い。
自分はそれぐらいの存在で良いのだ。そもそも重い存在ではない。であるならば、その重みのなさでたゆたうように生きてみようじゃねえか、と。

面倒くさいことはしたくない。自分は自分の思うままに。

本当に意味するところが何処にあるのかは別にして、自分が何となく受け継がせていただいている若三康弘さんのあの金言「楽しく、厳しく、いい加減に」の通りに、自分は残る人生を生きていきたい。

ま、こんなおっさんの書いたものでも、何か感じるところがあるなら、それはそれで嬉しい。「俺の書いたものでも、何か感じてくれる人もいるんだ」ぐらいなことが実感できたら良い。

これからの自分の励みはそこにあるのかもしれない。


まあ、今後も時々、しようもないことを書き散らすと思うけれど、それはあくまでも自分の仕様だから諦めてほしい。

「ああ、あのくだらねえおっさんが、また何か書いてるな」ぐらいの受け止めで十分なのだ。自分の価値は、たぶんそういうものだと思う。半世紀ちょい生きてきて、改めてそう思う。

ともあれ、今後も書ける間は何かを書いていくつもりなので。それだけは一応、宣言しておくとする。

最近、いろんな事情もあってか、noteの更新が以前に比べるととても少ないけど、おかげさまで自分は一応生きてるよ。まだくたばってはいない。

だから、これから先も、もう少しお付き合い願いたい。それがどういう形であろうともね。自分が生きて、何かを書いて発表できている間は。何かを書くことで自分の張り合いを生みたいだけなのだから。

自分にとって、書くというのはそういうこと。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。