見出し画像

散歩の途中 17

紫陽花

 「ただいま!」の声の様子で、弘子さんは娘のはるかちゃんの学校での出来事が手にとるように分かる。
 玄関にランドセルを放り出すと、クラスであったこと、友だちの男の子と話したこと、先生に褒められたことを一気にしゃべってそれからおやつだ。
 そんなはるかちゃんがランドセルを背負ったまま玄関に座り込んだ。「ただいま」の声のトーンがいつになく沈んでいた。玄関に出てみると、庭先に咲いた満開のアジサイをぼんやり見詰めていた。
 そういえば今朝、出掛けに紫と薄青の大輪を花束にして登校した。昨日降った雨で一段と鮮やさを増していた。「こんなきれいなアジサイははるかの家にしか咲かないよ」と週当番だからといつもより十五分も早めに飛び出していった。
 玄関先のアジサイはおばあちゃんが丹精込めて育てた。家のまわりは今はたくさんの住宅に囲まれた。はるかちゃんが生まれた頃は両隣はまだ野菜畑だった。おばあちゃんははるかちゃんが三歳の時に亡くなったが、初めての孫だったはるかちゃんをおんぶして今より手広く育てていた雨上がりのアジサイ畑を歩き回った。
 アジサイははるかちゃんにとってあいまいなおばあちゃんの記憶と重なっていた。
 はるかちゃんが抱えていったアジサイに、保健室の先生が真っ先に「まあ、きれいだこと。こんな色は珍しいわ」と頬ずりをするようにほめてくれた。うれしくなって四年一組の教室に入った。黒板の前の教卓に花束を置くと、後ろのボードに「今週の目標」を当番の由美ちゃんと手分けして書き込んだ。
 担任の藤原先生が入って来てアジサイの花束に気付いた。「おっアジサイか。♪気まぐれ、移り気、便所花~だな」と演歌の節回しで歌うように言った。聞きつけた由美ちゃんが「なにそれ?」と口をとんがらせた。
 「おれ、この花にいい思い出ないんだよな。失恋の花。学生時代に住んでいた安アパートの裏にいっぱい咲いててなあ。共同トイレの窓が一面この花でさ…」
 はるかちゃんは由美ちゃんと先生のやりとりにそのままうつむいてしまった。校長室から一番大きな花瓶を借りてきて飾ろうと思ったが、やめた。掃除バケツの中に入れられたままで教室の隅に置かれたままだった。
 その日一日、紫と薄青の花の色がおばあちゃんの面影とともに少しにじんでは消えた。 当番の仕事を終えると由美ちゃんとバケツに新しい水をたっぷり入れて、走って帰った。
 玄関先のアジサイは昨日よりも一段と鮮やかさを増していた。紫は一段と赤を増し、薄青は鮮やかな青になった。ひと雨来そうな空を見上げると、まん丸い花がおばあちゃんの笑顔になった。おなかがグーっと鳴った。
 ランドセルを放り出す音と、「おやつ!」との声に、アジサイの花々が小さく揺れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?